2016年に読んだ本の中から

(2016.3~12 旧ブログより)

Carsick / John Waters (FSG)
今年1月にサンフランシスコに行ったときに、Iron Lungのジョンに連れてってもらった24th St.の本屋で、ハードカバーがセールの山積みだった(ゾッキ本? 本底にマジック印あり)ので買って、以降なるべく読むようにしていたんだけど、やっぱり英語の本は読むのが億劫になるのね、読了までずいぶん時間がかかった。
ジョン・ウォーターズ(当時68歳?)がアメリカをヒッチハイクで横断!という、それだけでハチャメチャな企画を自らレポートした本。実際のヒッチハイクの話に入る前に、ウォーターズによるフィクションの“Best”と“Worst”の話があって、そのあとに実際のヒッチハイクをした話、という順番で載っている。“Best”は例えば、ジョン・ウォーターズ映画の常連・エディス・マッセイが実は生きてて、イリノイの小汚いコンビニで中古品を売る商売をやってた! なんていういい話もあってウルっとするが、基本的には次々と愉快で破天荒な人たちに拾われて、アメリカのバンドのツアー中にでも起きそうなめちゃくちゃな体験をしながら(エイリアンに犯されてのAss magicとかはメチャクチャの域を越えてるが)、サンフランシスコにちゃんと着く(ラストはナイフ売りの美男子)。“Worst”はその逆方向にただもう最悪なことの連続で、アメリカの先鋭でプログレッシブな人々(例えば出てくるのはGarbage diversity=ゴミ差別反対のオッサンとか、凄まじいアニマルレスキューとか、土と小便を摂ることを強制してくる狂ったVeganの人とか)をちょっとおちょくりながら、最後にはカルト映画が嫌いなカルト映画監督専門のシリアルキラーに自分が殺される、っていうオチで、やっぱこの人の笑いは最悪な方向に向かうと手加減されないなと感心する。
ただそのフィクションのハチャメチャさを読んだ後に、“Real(実際のヒッチハイク)”を読むと、Realでウォーターズを拾ってくれるのはみんな「いい人」ばかりで、もちろんフィクションで書かれたようなことは何も起きない。ただジョン・ウォーターズが炎天下、長い時間ひたすら待って、彼の事務所で心配する人たちにメールしたり調べ物をしてもらったりして、ようやく誰か気のいい人に拾われて、Here We Go Magicなんていうツアー中のバンドにも拾われたりして、で彼がヒッチハイクをしていることがSNSに載って、それをゴシップウェブサイトが取り上げて全米に拡散して、というとても現代的なことが起きて、ウォーターズはホテルの朝食のブッフェに文句を言って、Corvette Kidという共和党支持者の若者が、お母さんの車でお母さんを心配させながら、コロラドまで再びやってきて、という純粋さに助けられながら、ゴールするだけだ。正直そんなに面白くない。ジョン・ウォーターズにかかっても、「事実は小説より奇なり」とはならない。まあ当然か。
特にフィクションの方に、実在の人物やら歌手やら芸能人やら何やらが頻繁に登場するが、私はアメリカに住んだこともないので、よほど有名な俳優や歌手でもない限り、誰がどんな人なのかはわからない。これは海外のコメディ映画を見るときと同じで、ジョークの背景をよく知らないと、ギャグというのは十分に通じない。これは例えば『トラック野郎 望郷一番星』の冒頭に松鶴家千とせが出てきて、「わかるかな?わかんねえだろうな?」と言ったところで、それを初めて見る外国人(もしくはそれを知らない若者でもいいのか)が笑えるとも思えないのと一緒だ。で、読んでて知らない人物が出てきて、でも毎回akに聞くわけにもいかないけど、akからその人やジョークを解説してもらったりググったりして、ああなるほど!となるわけだ。これが多ければ多いほどこの本はおもしろいに決まってるが、それはやはりその地で生活するなりして、その背景をちゃんと知っておかないとムリな話なんだよなあ…。
あと大体どのフィクションのエピソードにも、都合よくラジオから流れる曲があって(巻末に曲のリストあり)、案の定youtubeにそのプレイリストがあった。その中で聞いてておもしろかったのが、“Tofurky Song”。これは前にVegan Extremeでもお話ししたが、アメリカの健康食品店とかスーパーによく売ってるベジタリアン用の七面鳥フェイクミートだが、ポップな歌な分だけバカに聞こえて楽しい。

サッカーと愛国 / 清義明 (イースト・プレス)
2012年にヨーロッパあたりを旅行していたとき、6月中旬くらいからギリシャ中部のヴォロスのスクワットに泊まっていた。そこで一緒に遊んでいた男で、Tというトルコとフィンランドのハーフで、ヴィーガン・ストレートエッジでゴリゴリのアナキストの旅行者がいた。彼とはヴォロスにいる間、毎日エーゲ海を泳いだり(って書くとなんだかとてもオシャレに聞こえるな)、公園でひたすらヒマワリの種(欧米アナキストがよくやるように、Tがスーパーで盗んできた)を食べながらあれこれと話したり、当時彼はギリシャ人の恋人がヴォロスにいたので、3人でメシ食ったり、まあ本当にダラダラと暑いギリシャの夏を一緒に過ごした。Tは以降、一連のトルコの情報を逐一教えてくれたり、次号EL ZINEでインタビューを載せる予定のイスタンブールのアナキスト・コレクティブを紹介してくれたりと、私のそのへんの情報元になっているありがたい奴だ。Tはサッカーと旅行と読書が好きなマジメな奴で、彼の贔屓のチームはFCザンクトパウリ。そう、毎日あのドクロのTシャツを着ていた。私は特別サッカーのファンでもなんでもなかったのだが(中高とサッカー部だったが…)、一緒に遊んでいたときにTからそのへんのヨーロッパのサッカーとアンチファの関連を教えてもらったりして、ああこれはおもしろいなと思い、それ以降は以前よりは国内外のサッカーの動向を追うようになった。特にニッポン国内、Jリーグとアンチファなんて、まるでそんな意識ないだろうと思っていたが、例の浦和レッズの「Japanese Only」事件やら、マリノスのバナナ事件やら、ここ最近の日本の差別思想がJリーグにもにじみ出たかのような事件もあって、日本にもアンチファ・フーリガンみたいなのがいるのだろうかと気にもなっていた。
そこで読んだのがこの本なのだが、そもそもこの本の著者を知ったのは、去年の例のThe Oppressed来日キャンセルの記事を、著者のブログで読んだことからだった。
もちろんサッカーを中心に社会問題などについても書かれているライターの方なので、その両方を扱ったこの本はさすがにちゃんとしてるというか、例えば先述の「Japanese Only」の一件は、「嫌韓」とは別に、日本サッカーの中に元々あった韓国へのライバル意識を土台にした、浦和レッズが特に持つ「アンチ韓国」の歴史が裏にあることとかは、にわかファンの私は知るわけもなく、なるほどなあと。ネットから溢れ出たレイシズムが、一般社会にもその姿を現した一連の排外主義デモのように、サッカーの場にもそれが登場、しかも右傾化の源流とされる2002年の日韓ワールドカップが正にサッカーそのものであるから、余計にその影響も出やすい、目に見えやすいというものだろう。
この本でおそらく一番興味を引くのは、李忠成の父へのインタビューの部分。李の曽祖父は100年前に、朝鮮半島が日本の植民地になってすぐに大邱から日本にやってきて、その息子の李の祖父は、学徒出陣で兵隊になった特攻崩れ。その祖父について、李の父がこう語っている:

「日本人として教育を受けてきたから韓国語はしゃべれない。(中略)戦争に負けたからいきなり日本人から『外国人』になっちゃった。外国人だから弁護士にもなれない。親父からしてみれば非情な敗戦ですよ。ただでさえ『天皇陛下万歳』で死のうとしていたのにさ。」(P.176)

李は韓国籍を経て最終的に日本籍を選び、父親は韓国籍、この祖父は朝鮮籍で、一家全員パスポートが違うのだ。

「なんで在日が日本にいるんだって人もいるだろうけど、社会とイデオロギーに翻弄されている歴史をわかってほしいよね。そうやって翻弄されながら生きていることは、人間の弱さなのかもしれないし、強さかもしれない」(同P.177)

その他冒頭のトルコ/フィンランドの友人Tが支持してるFCザンクトパウリの詳細な説明にも章がさかれている。ハンブルクのスクワッターからあのドクロマークが始まった、というのが何ともチームのその後を暗示してるが、オルタナティブな人たちが支持するプロのサッカーチームが、ドイツの1部リーグ(今は2部か、あの宮市亮がいるとは知らなかった)で普通に戦ってるというのは、なかなかJリーグでは想像できない(たぶんこの先もありえないだろうが)。
ちなみにTはサッカーのクラブチームが好きなだけで、各国の代表戦はまったく見ないという筋金入り。国同士が争うのは見たくもない、という理由だ。土地とチームが好きなだけで、それを無理矢理まとめるナショナルチームなんかくそくらえ、とか、理由は様々あるようだが、この本にもそういう人たちが登場する(国内なら、渋谷交差点の「ハイタッチ・フーリガン」を否定するJリーグクラブのサポーターたちの感覚は至極真っ当というわけだ)。ヴォロスにいたときにちょうどEURO 2012がやっていて、準々決勝の1つがギリシャvsドイツというカードだった。グレッグという地元の友人はナショナルサッカーも見る人だったので、一緒にバーに見に行ったのだが、折りしもギリシャは経済破綻の真っ只中、それに対してドイツのメルケルが緊縮策をギリシャの人たちに強いてくる、という状況だったため、もうバーはドイツがボールを持ったらブーイングの嵐。メルケルも試合を見に来ていたようで、一度メルケルがスクリーンに映し出されたときにはブーイングだけでなく爆竹まで鳴っていた(笑)。過激だなあと思いながらもそれなりに楽しかったのだが(試合はギリシャの負け)、Tはもちろん見に来なかった。
ギリシャのサッカーついでに、アテネで見たアンチファ・イベントのことも思い出しておこう。アテネにいたある日、アナキスト密集地域エクサヒア(そういえば最近のアテネのアナキストは、ネオナチ政党「黄金の夜明け」とだけじゃなくて、地元ギャングとの間でも抗争してるそう…)の近くにあるStrefi Hillという小山でアンチファ関連のイベントがあって、ハードコア・パンクのライブもやるというので、泊まらせてもらっていたスクワットの連中と一緒に行ってみた(ギリシャのメタルクラスト・Hibernationのメンバーもいた)。夕方からバスケ、フットサルをやって、夜(と言っても23時とかにスタート)はライブ、という2部構成の長期戦。終わったのは深夜4時だったか…。EL ZINEの12号にこの辺のことを書いたので読み返してみたが(過去の記事にも書いてあった)、ライブはアテネの古参スクワット、Villa Amaliasがネオナチに襲撃されて破壊されたので、その修復をというベネフィットライブだった。Dirty Wombsというバンドなどが出ていた。このフットサルをやっていた時に聞いた話だが、ギリシャには古くからアンチファのサッカー(ヨーロッパなのでフットボールか)チームがたくさんあって、こうやってアンチファ同士が交流する機会をもったり、パンクスと一緒に何か行動をしたりするらしい。これも前にEL ZINEに載せてもらったインタビューだが、ギリシャのパンクス3人にインタビューしたときに言っていたように、ギリシャのパンクス、アナキストたちは群を抜いて過激で行動的で、それは何も最近始まったわけではない。先に登場したグレッグのそのインタビューからの言を引用すると:

(それらギリシャパンクス、アナキストたちの過激さについて)「それはギリシャの政治状況がそうさせてきたからだと思う。1946年から1949年までは内戦があり、共産主義者と、イギリス政府の後ろ盾を得た右派政府と第二次世界大戦下でのナチス信奉者たちが戦った(ギリシャはナチ占領時代から左派レジスタンスの動きがあった)。その内戦で共産主義勢力が負けてから、彼らは大変な生活を送るはめになったんだ。もちろん今でも左対右の憎みあいは残ってるけどね。その後1967年~1974年には軍事独裁があって、その軍事政権崩壊後に左派の強力なムーブメントがあったんだ。同時に右派テロリストグループも活動を開始したけどね。
その後しばらくして、1981年に社会主義政権が登場するのと同時にギリシャにパンクムーブメントが起きたよ。それと一緒に、アナキストムーブメントも爆発的に起こった」「ギリシャその後 -ギリシャの3人のパンクスへのインタビュー-」(2013年4月)より

というわけだ。なのでおそらく、ギリシャのアンチファのフットボール・サポーターたちも、パンクスがパンクに自由を求めたように、サッカーにそれを求め、この時期に増えていったのではないだろうか(中には19世紀から続くアンチファ・フットボール・チームというのもあると言っていたが…)。もちろんパンクスがそういうアンチファを共通項に、サッカーに近づいていくって動きもあるだろうし、そのへんはFCザンクトパウリのサポーターのようにオーバーラップしてるんだろう。
というわけで非常に勉強になったのと、ギリシャのことを思い出したこの本。他にサッカーに関する本だと、そもそも世界のサッカーなんてのは、金と権力にまみれたもの、それでも人々は命をかけて熱狂する、ということを学んだ『サッカーの敵』(サイモン・クーパー著 白水社)や、この本の帯にコメントを書いてる木村元彦の「悪者見参 ユーゴスラビアサッカー戦記」(集英社文庫)が、90年代のセルビアの状況をきちんと文章にしていて好きだが、こういうナショナリズムとサッカー、ナショナリズムとスポーツというのは、ちょうどオリンピックもあと4年で嫌でもやってきてしまうわけだし(裏金疑惑はどこへ行った?)、もう少し気にしていないといけないんだろうなと、ブラジルにマリオの格好をして土管から現れたニッポンのシュショーを見て空恐ろしくなりながら思った。

TOEIC TEST 全パート完全攻略! /赤井田拓弥、Jeffrey M. Bruce(あさ出版)
アレをアレするためにTOEICを受ける必要が出てきたので、約5年ぶりに受験の応募をした。今年の5月からテストの形式が変わったと言うが、そのために一生懸命勉強する気はないにしても、何もせずに受験するのももったいないので、新形式について説明のある適当な参考書を本屋で1つ買ったのがこの本だった。
新形式は、要は問題を解くのに前以上の時間が必要で、一番厄介な、最後のメールや説明書きなどを読んで答える問題が増えて、しかも参照するモノが最大3つと、嫌がらせ度が増した、ということのよう。で一通りこの参考書をやってみると、相変わらずのひっかけ問題が多くてそれだけでウンザリする。早合点で答えたら半分くらいしか合ってなかったパートもあったな…。
まあTOEICなんか受けなくても英語が喋れる人はたくさんいるし、まあそもそも会話のテストがないので、あくまで聞いて読む力しか判断できないテストなのだが(最近は別に“Speaking & Writing”ってのもあるようだが)、英語が関係する職への就職には、今でも異様なまでにこの点数が重視されてるようでもある。まあ参考書なんてどれも大差ないだろうし、よくブログが出てくるような満点目指すような暇な人は、それに特化した勉強を日夜やってるんだろう。準備をすればするだけ高得点が取れる類のテストだし(彼らの「裏技」は参考になるけど)。
さて、実際にテストを受けて気になったのは、7月の暑い日なのに、最寄駅から受験会場までが遠すぎる! 徒歩で15分近くかかった。 簡単に熱中症になるという厄介なクセのある私は、会場にたどり着くまでに一苦労で、これは夏に受けるもんじゃないなと会場に着いてすぐ後悔した。テストもその新形式だからなのかわからないが、とにかく長い。終わらないPart 7。すべてを解き切って残った時間は、たったの2分。前はもっと余裕あったような。見直しなんかする暇もなく、あっという間の2時間だった。ちなみに結果が早速届いて、今回は・・・900点は越えました。

日本人の英語はなぜ間違うのか(集英社インターナショナル)
日本人の英語/続 日本人の英語(岩波新書)
/ マーク・ピーターセン

上記TOEICの参考書とあわせてではないが、仮定法とか冠詞とか、英語を使うにあたって何かと忘れがちな、細かい部分を思い出すのによく読んでいる(=トイレで繰り返し読む用)マーク・ピーターセンの諸作を、テスト前におさらい。この人の皮肉(教授なので学生や研究者に対してのものが多いが)がなかなか面白くて、それはどうやら日本の英語教育(先の仮定法なら、高校1年まで習わないので、それまでは意味不明な文法で仮定法を回避しなければいけない、など)に向けて書かれていて、なるほど、やっぱり教育というのは盲信するとロクなことがないなあとも思えてしまう。「読めるけどしゃべれない」というのがニッポンの英語教育のせい、というのはよく聞く話だし、教科書なんて話半分にして、この人の本を読んでた方がよっぽど身に付きそう。
思えば私も学生のころ、よりエクストリームで変なバンドを探すべく海外のバンドやレーベルとやりとりを始めて、音源やジンなどを購入したり、ディストロ用仕入れをしていたが、そのころ使っていた英語のことを思い出すと恥ずかしいなあ……。“the”の多用とか…。そのころにはマークさんの本は既に世にあったわけで、「名詞に冠詞がつくのではなく、冠詞に名詞がつく」とか意識してたら、もうちょっとマトモな英語が書けてただろうに。まあ通じててちゃんとモノは届いてたからいいんだけど。
ちなみに非英語圏のそういう「間違った英語」のことを、揶揄しながら「Engrish」と言うが、まあ私も未だに時々、clubと言ってるのに「食べるの?(=crabね)」と間違えられるので、正にEngrish speakerなわけで文句を言う資格もないだろうが、こういうビデオは単純におもしろいね。今や日本語使える英語圏の人はいくらでもいるので、こうやって指摘してもらうのはいいことだけど、こういうネイティブ話者では発想不可能な英語の使い方というのもまたアジがあるので、誤用にひるまずに他言語を使うことが一番大切なんだと思う。

トレイシー・ローズ 15歳の少女が、いかにして一夜のうちにポルノスターになったのか /トレイシー・ローズ 野澤敦子訳(WAVE出版)
ジョン・ウォーターズの「Carsick」を読み始めて以来(ようやくもうすぐ読了…)、ここ何か月か「ジョン・ウォーターズ強化期間」を勝手にやっていて、今まで見たものも初見のものもあわせて、ジョン・ウォーターズの映画を見れるだけ見ていた。やっぱり『ヘアスプレー』は最高の反差別映画だし、『フィメール・トラブル』や『シリアル・ママ』は何度見てもメチャクチャで楽しい。そんな中で、『クライ・ベイビー』でとてもキュートな不良少女を演じているトレイシー・ローズのことがいまさら気になって、ググっているうちに自伝の邦訳が出てることを知って、読んでみた。
「壮絶」なんて言葉で彼女の半生をまとめるわけにもいかないが、10歳で当時の彼氏(16歳)にレイプされて、15歳で妊娠し、義父から性的虐待&ダマされてヌード雑誌、ポルノの世界へ。やりたくもないポルノをドラッグで覆い隠す日を過ごし、18で年齢詐称がバレてポルノ業界から追放、訴追、脅迫、検察からも徹底的な嫌がらせ…。
それでも他人を責めず、自分の責任だと前を向くトレイシーはなんともピュアというかマジメというか、若気の至りの上に身近な人に騙されて、あれよあれよとそうなってしまっただけで、とても「ポルノクイーン」なんてタマじゃない。でもそんな自分のおもいとは裏腹に、世間は彼女をいつまでも伝説のポルノクイーンと呼び(この訳本のサブタイトルにも思いっきり書いてある)、トレイシーをいつまでもそこから抜け出させてくれない。それでも腹を決めて、自分がやったことだからとそこから逃げずに、次々といろいろなチャレンジをしていく彼女はかっこいい。
まあ本のあらすじはいいか。そう、先述のように、『クライ・ベイビー』のトレイシー・ローズはなんとも愛らしいキャラで、あの画像(“Beat it creep”のやつ)がどこからともなくよく出てくるが、そんな『クライ・ベイビー』の記者発表で、メディアにまた過去のことを聞かれるのにビクビクしてたトレイシーに、ジョン・ウォーターズが「ハニー、生きている限り、君はこの質問に答えていかなければならないんだよ」(p283)と声をかけ、そこでトレイシーも吹っ切れるシーンは感涙モノ。ジョニー・デップとの話(ジョン・ウォーターズに『ファスター・プッシーキャット キル!キル!』のビデオを見るように言われて、VHS再生機のあるジョニー・デップの部屋に行くエピソード)や、MTV授賞式でのガンズ・アンド・ローゼスやスラッシュとの話も素敵です。
この自伝、中学校くらいの道徳か何かの授業で使ったらいろいろタメになるんじゃないだろうか。そこらの手垢まみれの美談なんかよりよほど説得力がある。もちろん自民党が推し進めようとしてる道徳による「思想統制」なんかより100万倍マシだろう。ただ同時に、「カリフォルニアの中学生は、マリファナとビールはあたりまえ」みたいな先入観も持っちゃうんだろうけど。
1995年にはこんなテクノの音源も出していたとは知らず。プロデュースはジュノ・リアクター。

ブラック・メタルの血塗られた歴史 /マイケル・モイニハン、ディードリック・ソーデリンド著、島田陽子訳(メディア総合研究所)
今更感満載の1冊ですが、おととしだったか、神保町の古本まつりで新品が1000円(自由価格本?)で売っていたので買ったのだった。やっぱり売れてないのかな…。
アンダーグラウンドのメタルシーンに興味があれば、伝聞なのかネット情報なのかわからないが、みんなだいたいのことは知っている、1990年代初頭のノルウェー・ブラックメタルの数々の事件を追った本書。Burzmは教会を燃やし、Mayhemのギターを殺したとか、Emperorのドラムは同性愛者を殺したとか、そういうことについてだ。ただ検索してみたら、このアメリカ人著者は、ネオフォークのBlood Axisをやっているとな。こりゃニュートラルというよりは、どちらかといえば、そのカルチャーを自分がやってることの下敷きにしたい、内包したいという目論見があったのではないかと勘ぐってしまう。
さて、この著者はブラックメタルという文化を単純に「リスペクト」しているというわけでもなさそうで、一連のノルウェーの「ブラック・サークル」での教会放火や墓暴き、殺人などは、その「勝手連」的なコミュニティ内で、言ってしまえば「一番過激なことをやったらスゲー」みたいな、若気の至りが、度を越してしまっただけ、というようにも書かれている。まあそれはこの場合ある種健全な分析なのかもしれず、ヘタにブラックメタルを持ち上げることもせずに、その背景にあるヨーロッパのキリスト教支配や、それに対するアンチテーゼとしての北欧神話やオーディン信仰などの解説とあわせて、メディアとブラックメタル・サークルとの「共犯関係」まで言及する。1980年代後半から90年代初頭にかけて、ノルウェーのメディアが米英のサタニズムについて、子供を生贄にしているだとかあることないこと書き連ねて、センセーショナルに報道した。そのとばっちりを受けたのが、本の中でもインタビューがされている、アレイスター・クロウリー影響下の「東洋テンプル騎士団」ノルウェー支部を開設したシーメン・ミドガールという人物であったりして(この人物は、このブラックメタラーたちのサタニズムを「キリスト教の一派」としてスパっと切り捨てている)、そのメディアの報道や記事を読んだ若きブラックメタラーたちが、真に受けて、感化されて行動に移し、それをまたメディアがセンセーショナルに取り上げて、Burzmのヴァーグ・ヴァイカーネスのような人物はますますつけあがって、シーン内での権力闘争のために、ユーロニモスすら殺してしまったのだというわけである。決定的な報道として2つあげられるのが、ヴァーグの地元ベルゲンの大手新聞「Bergens Tidende」の1993年1月の記事と、それをふまえて書かれたメタル雑誌「Kerrang」436号(1993.3.27発売)のノルウェー・ブラックメタル特集。要点はこんなところだろう。その後のヴァーグの思想の変化(チープなサタニズムから異教信仰へ)や、東ドイツのAbsurdのメンバーが起こした「いじめ殺人」にもページはたくさん割かれている。
90年代初めのブラックメタル黎明期の主要人物にもインタビューされているが、その中でおもしろい回答をしているのがUlverのメンバー。今やUlverは、アンビエントっぽい音楽で、オーケストラを率いてライブをやったりしてる立派なミュージシャンだが、当時のドラムのエリックはこんなことを言っている:

「(略)ブラック・メタルのもとはヴェノムだろ。みっともない飲んだくれ、ヘヴィー・メタルの愚かさの象徴みたいな奴らだ。(中略)俺たちのオーディエンスを見てみろよ。ブラック・メタルの平均的購買層ってのは、典型的な負け犬だ。子供のときにはいじめられ、学校の成績も悪くて、生活保護で暮らしてるような、そういう何の役にも立たない奴らさ。自分らを拒絶した社会に反抗して結束したのけ者同士、特別な仲間を作った気になって、それで自分の劣等感やらアイデンティティの欠如を埋め合わせようとしてるんだ」(P.270)

なかなかひどい言い草だが、Ulverのフロントマンのガームも「ブラック・メタルの人間には、まるで間違った、狭い人生観しか持っていない奴が多いからさ」とか「残念ながら今このシーンの中心にいる奴らのほとんどはアル中の体制順応派の負け犬だ」などと似たようなことを言ってるので、Ulverは教会放火や墓暴きのような「くだらない」ことには早々に見切りをつけて、自分たちの音楽をどんどん進化させていったことがよくわかる。
ちなみにMayhemのドラムのヘルハマーは、20年以上前のインタビューになるが、「俺たちはこの国に黒人がいることが気に入らない。ブラック・メタルは白人のためのものだ」とかなりイケイケなことを言っている。
まあ今やパンクスがブラック・メタルを聞くのは珍しくもなんともなく、「ブラッケンド・ハードコア」なる言葉もたまに聞くが、ただ星の数ほどあるバンドの中で、「あのバンドはちょっとNS(国家社会主義)っぽいからダメ」みたいな線引きは、どこでどうなされてるのだろうと疑問にも思う。理由(言い訳?)のひとつとして、「音楽だけ好き、思想は嫌い」というのもよく聞く。前に友人から聞いた話だと、ギリシャのあるスクワットでのライブの物販で、メタルの音源を売っているだけで追い出されたことがあるそうだ。ギリシャのパンクスみたいな超ラディカルさだと、メタルってだけで排除するPCパンク原理主義なのかもしれず、これは国や文化ごとに「線」が全然違いそう(ギリシャにはメタリックなハードコアパンクバンドが多いのが皮肉だが)。今やオカルト意匠はブラック・メタル、ドゥーム・メタルとかだけじゃなく、パンクスでもそれをうたう人やバンドを見かけるが、このへんの線引きの微妙さも面白そう。「クールだからok」という返事が聞こえそうだが、クールは万人と共有できるものでもない。だからやったもの勝ち、割り切ったもの勝ちという部分もあるのだろうけど。
ちなみにこの本の著者のバンド、Blood Axisがアメリカ国内でライブをやろうとしたら、地元のアンチファに抵抗されてライブがキャンセルになったとか、Death in Juneのツアーをやめさせるアンチファ・アクションだとかは各地であるみたい。詳しくは調べてないけど、ネオフォークやペイガン、ブラックメタルなどのジャンル全体を否定する気はないが、ナチイメージを使ったわりと有名なバンドで、特にそのライブがナショナリストの集会と化す場合はアクションを行ってるそう。線引き、線引き、まあ似たような話はニッポン国内でもあるか。
そういえばこの“Lords of Chaos”、かつて園子温がハリウッドで映画化するとかいう話があって、ただただ暴力的で、妙な青春モノにならなければいいがと危惧したことがあったが、あれはポシャったとどこかで見かけた。どうなったのだろうとググってみたら、スウェーデン人のJonas Åkerlundという人が、リドリー、トニーのスコット兄弟の会社“Scott Free”の製作で映画化するとIMDBに書いてあった。この監督はマドンナからローリング・ストーンズからメタリカから、さまざまな有名人のミュージックビデオを撮ってる人らしいが、なんと最初期のBathoryのドラムだった人だそうで。スウェーデン人が撮るからなのか(スウェーデンとノルウェー人はお互いの国をよくバカにしあってるというイメージ…)、MayhemのベースのNecrobutcherが映画化に反対してる、という2015年5月の記事も見かけたが、もう撮影は終わったのかな。
このJonasさんの初ビデオ作品は、あのマジメだかフマジメだかよくわからないCandlemassのBewitchedの有名なビデオだそうで。貼っておきます。後半のみんなでストンプ場面が愉快。

字幕屋のニホンゴ渡世奮闘記 / 太田直子(岩波書店)
字幕屋に「、」はない 太田直子 (イカロス出版)

「時間のある2016年」シリーズの一環として、現在ある映画の字幕翻訳をボランティアでやってるのだが、参考になるだろうかと思って読んでみた。実務的なところで、1秒4文字とか、1行13文字とか、ハコ書きスポッティングなど、先日翻訳をはじめるにあたり教えてもらったことは書いてあった。が、この辛酸なめ子にも通ずるような礼儀正しい皮肉の数々の裏には、字幕翻訳者の尋常じゃないハードワークがあるようで、現にこの著者は今年1月に56歳で亡くなっているではないか! 岩波の方に著者の生活の実録があるが、夜中まで働いて朝まで酒をくらって正午に起きる、という生活が続けば体にもガタがくるのであろう。締め切りと1秒4文字の悪夢に追われる生活なんてごめんであるが、字幕翻訳自体はやってみると楽しい。英語は情報量の多い言語だと思うが、それをいかにまとめるかは、この著者の言うように英語の能力より日本語のセンスの問題だろう。「日本語の字幕は世界一」みたいな話は眉唾ものだが(確かにヨーロッパなどからの輸入DVDなどの英語字幕は、ぜったいに不可能な分量の英語字幕を追っているだけで映画が終わっていて、シーンなどこれっぽっちも覚えていないことはよくあるが)、この業界も効率化で大変みたいだし、それで字幕のクオリティが落ちるのもイヤな話である。

聖別された肉体 オカルト人種論とナチズム / 横山茂雄 (書肆風の薔薇)
こういう本を読むと何と感想を書いていいのか困るが、最近読んだ本の中でもずばぬけておもしろかった。おもしろいことを文章化するのは大変な作業だ。さすがと言うべきなのか、横山先生の言うことを聞いてれば、面白い読書・映画体験ができるのはもはや疑いがない。『映画の生体解剖』も1度は読み終えたが、あれはそもそも通読するようなものでもなくて、手術台、放電、水、裂け目など、キーワードをなんとなく頭に入れておいて、今後見る映画の中でそれらに出会ったときに改めて読み返すような、百科事典の類の本だろう。
さて、この本はナチス前史=19世紀末からの西欧でのオカルティズム流行からちゃんと説明がしてあって、ナチスの指導者の一部がフェルキッシュでオカルティックな思想にとりつかれていた、という背景が膨大な資料を基にていねいに書いてあるのでわかりやすい。まあ別にわかりやすさなんてどうでもいいんだけど、この前史の枝葉がおもしろくて、「血と土の結合」を目指した後のナチス農業大臣ヴァルター・ダレェや、SS長官ヒムラーがかかわったという「右翼的農本主義的青年運動団体」アルタマネンなどは、当時の日本の権藤成卿や橘孝三郎なんかはその存在を知っていたのだろうかとか、スイスのアスコナという村にあった「モンテ・ヴェリタ」というコロニーは、バクーニン、クロポトキンやレーニンなんかも訪れたという記述なんかに妙に興奮する。
アメリカではベジタリアンに対して「お前はナチか」みたいなジョークが飛ぶ(おそらくヨーロッパでは無理なんだろう)くらいに、ナチスと菜食主義は深い関係があるが、最近もううんざりするくらい大流行りの、オカルトとか神秘主義っぽい意匠をはらんだドゥームメタルやパンクバンドなんかは、実はアナーコじゃなくてこっち経由でベジだったりしたら面白いな。
しかしそのフェルキッシュ・オカルティストたちが純粋北方人種をアトランティスに求めたのと同じように、わがニッポンにも皇国思想をムー大陸にまで拡張した藤沢親雄という国家主義者までいたとか。いやはや、こういう「偽史」に魅せられて自らに都合のよい解釈を加えていくのは、今猛威をふるう歴史修正主義にもぴったり符号する。保守系論客による「日本人はスゴい」なんていう類の本は、実は全部オカルトなんじゃないかと。

殊能将之 未発表短篇集 / 殊能将之 (講談社)
殊能センセーの未発表作品がまだ読めるとは…。「読書日記」のときもそうだったけど、最初にインフォを見た時に感涙しました。装丁も綺麗、函入りで愛があります。
この3篇の中では「精霊もどし」が一番のお気に入り。友人の妻の幽霊と不倫している(と思われている)なんていうシチュエーションが、予定調和で終わらせないセンセーの後の諸作の萌芽を見ているよう。「ハサミ男の秘密の日記」も、メフィストに載ったときに立ち読みしたきりだったが、このやりとりから「memo」上でのセンセーの日常が浮き出てくるようで、読んでいて懐かしかったね。まあ「memo」からセンセーのファンになったような人間には、センセーの何を読んでもmemoにつながっちゃうわけだが。

素敵なダイナマイトスキャンダル / 末井昭 (ちくま文庫)
実母のダイナマイト心中から、池袋でのキャバレーの看板描き、その後エロ本編集者になったという伝説の人物の単著。著者は衒いがまったくない人なので、読んですがすがしい気分。解説で花村萬月は著者を指して「枯淡」という表現をしているが、的確なことば選びだと思う。きっと枯淡な人物なんていうのは、なろうと努力してなれるものでもないので、自然体がそうであることでしか生まれえないのだろう。本中ではアラーキーの原稿を取りに、都電で三ノ輪まで向かう描写が好きだね。あとはHAND-JOEの人たちの面白さと。

「あやふやなものはあやふやのままでいい、もう面倒だからそう結論してしまう。あやふやのまま死んでゆけるのなら、まァそれでもいいのだ。どうせ人生なんてすぐ終わってしまうのだから。
でも、とりあえずは面白い方がいい。(中略)面白くするのは簡単なのだ。僕は、その簡単な面白いことを一生続けてゆければ、気持ちよく死んでゆけるのではないかと思っている。」(P.218)

狂風世界 / J.G.バラード 宇野利泰訳 (創元推理文庫)
バラードの積ん読がまだけっこうあるので、徐々に消化しようと思っての長編処女作。毎日5マイルずつ風が強くなって、しまいには時速500マイルまでになってしまった世界の話。
ハードゥーン(綴りは‘Hardoon’なのね、なんかかっこいい)のピラミッド建設のあたりは、イギリスの階級社会、つまり後の『ハイ-ライズ』が垣間見える気もするが、あとは凡庸なアクションシーンが多め。その中では個人的には、主人公メイトランドの妻が、狂風でこわれゆくロンドンを見たいからと、避難もせずに住居に残ってそれを見つめているシーンが好きだなあ。
原文確認していないが、よく出てくる掩蔽壕って’bunker’のことかな。J.G.バラードはパンクスやドゥームメタル、スラッジ系に好きな人が多いというのが私の勝手な想像だが、Locrianというアメリカのドローン/ノイズロックバンドは、その名もずばり“The Crystal World”なんてアルバムを出していたし、マイメンIron Lungのジョンも大好き。家にはバラードのペーパーバックがたくさんあった。『クラッシュ』とか後期のテクノロジー系作品が好きだというのも、Iron Lungの音を聞いているとなんとなく想像できる。にわかにわかSFファンの私は、たまに彼らに面白い本を教えてもらうのです。

「概していえば、およそ人間なる動物は、野鳥や獣類にくらべて、思いつきの豊かさ、適応性、先見の明、すべてみな劣っている。二義的な欲望をみたすためのメカニズムが、根本的な生存本能を鈍らせ、曇らせ、自己の身を守ることさえ不能にさせているのである。サイミングトンがほのめかしたように、人類は生き残る権利を過信する根強い楽天主義の救いがたい犠牲者なのである。自然の秩序がかれらを優先させ、かれら自身の愚行がないかぎり、あらゆる危険から守ってくれると信じて疑わない、いうなれば、みずからの優先性に、きわめて僭越な臆断をくだしているのである。」(P.163)