【お知らせ】コロナ後遺症の症状があまりよくならないので、しばらく休業します。Gray Window Pressの書籍は、引き続き以下のリンク先でご購入いただけます。https://t.co/clI1aX3y1g
— Gray Window Press/Satoshi Suzuki (@graywindowpress) August 6, 2022
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Rigorous Institution/World of Illusion
(“The Coming of the Terror” EP, Whisper in Darkness, 2019年)
黒杉研而
ポートランドでは今も素晴らしいパンク/ハードコアのバンドが数多く活動しているし、近年はDecompやGenogeistといったクラスト色の強いバンドも盛り返してきているようだ。そしてその中でも一際異彩を放っているのが、Pig DNAやDeskonocidosなどのメンバーによって結成されたRigorous Institutionだ。DecompやGenogeistが、同郷の雄Hellshockを彷彿させる、比較的ギミックの少ない突進型ステンチコアであるのに対して、こちらはHellhammerやCeltic Frost、Venom等のProto-Black metal、そしてそれらに触発されたAmebixの強い影響を匂わせる。しゃがれたボーカルは露骨にBaronのそれを踏襲したかのようだ。タム回しを活かした重厚なグルーヴを適宜織り込みながらも、多くの曲が冗長にならず2分前後で終わるという潔さもいい。ほぼ全ての曲に入るシンセのPadサウンドが幻想的な雰囲気を彩っているが、それは単なる装飾ではなく、このバンドのサウンドやキャラクターにとって、比較的高い位置を占めているようにも思える。それはかれらを賞賛する人々が「クトゥルフ」や「ダンジョン・シンセ」等の文脈に擬えてかれらの音楽やアートワークを語る様からも伺えよう。
https://www.noecho.net/song-of-the-day/rigorous-institution-band
シンセ奏者のMattyはDecompのボーカルCodyのパートナーでもあるようだが、Hawkwindの80年代の名盤“The Chronicle of the Black Sword”のとある曲名をアカウント名に拵えた彼女のインスタ・アカウントは、コミックや小説を始めとした、SFやファンタジー、ホラー等のスペキュレイティブ・フィクションネタの宝庫だ。DIY家具職人としても活躍しているらしい彼女の存在は、きっとこのバンドのカラーに多大なる貢献を果たしているに違いない。
所与の舞台で役柄を演じるだけのお前
燃え盛る回廊に囚われた自我
悲劇を眺め、喜劇を眺め、そして頁をめくる ― 幻想の世界で、ただ与えられた情景を消費する空疎な青写真との観念的同盟
意味のないパントマイム
魔術師の被造物、光のトリック ― 幻想の世界で、鏡の広間に誂えられた完璧な牢獄お前は監視されていると感じ、裁かれていると感じる
あたかも巨万の民の所有であるかのように 重く、長大な鎖に自らを括り付けた
巨万の精神に拘束されたのだ愚か者よ、目を覚ませ! 手遅れになる前に
薬漬けのまどろみから立ち上がり、幻想の世界を打ち破れ
Black Waterと肩を並べるWhisper in Darknessのレーベル名がラヴクラフトの著作からの拝借であるように、北米のクラストも前述のスペキュレイティブ・フィクションからのインスピレーションを比較的積極的に用いる印象だ。それ自体は何もクラストに限った話ではなく、パンク、あるいはロック以降のポピュラー音楽全般を俯瞰すれば、とりわけ珍しい事ではない。ただ、パンクバンドやメタル界隈でのフィクションの引用が、メインストリームな界隈でのフィクションのオマージュetcと質を異にする点を敢えて挙げるとすれば、それは文学的修辞・装飾や表現としての審美性の域を超えたものであるという事ではないだろうか。
それは屡々、私たちが単に逃避的に幻想の世界に耽る事を良しとせず、むしろフィクションからのインスピレーションを通じてこの現実社会を見渡す事を私たちに迫るものであり、また現世はフィクション以上に奇異で不条理な、荒廃した世界であるという事を私たちに突き付けるものでもある。「悲劇を眺め~」の一節に、スマートフォンという便利なポータブル・デバイスに生そのものを規定されてしまっている私たちの姿を重ねたり、SNSでの止む事なく矢継ぎ早に訪れる不毛な「炎上」文化、それに付随しがちな、無益なヘゲモニー合戦へのある種の軽蔑のような感情を読み取るのは、決して的外れではないだろう。それらは消費的で従属的な人間の生き方であるという評価を下してしまう事も、いわゆるパンク・レトリック的には可能だからだ。
「薬漬けのまどろみ」が北米での深刻なドラッグ問題を揶揄しているのかは定かではないが、それは自身らが属するコミュニティで生起しがちな“歪み”をも内在的に批判しているようにも受け取れる。パンクやメタルはサブカルチャーに熱狂するドロップアウトしたユースを鼓舞し、エンパワメントする文化には違いないが、常に完璧なものではなかった。一般的な社会通念や規範意識を遠ざけるコミュニティが私たちに与える逸脱的な経験のいくつかは、時に個人の目を社会的な事実から背けさせ、ある種の迷妄へと走らせるものとしても作用する。どんな文化も、それ自体として独立に存在しているという事はなく、周縁的なものとの相互的な干渉や対立、あるいはある種の「妥協」をその内に孕みつつ存在している。其処には、依然として私たちを眩惑の世界へと誘う道が無数に待ち受けているのであり、個人がひとたび選択を誤れば、立ち向かうべき対象をいつしか見誤ってしまうという事も起こり得る。
終末の世に産み落とされた、パンクとメタルの鬼子とでも言うべきこのバンドの鵺的な性質そのものが、肯定も否定も無い混ぜの、矛盾をその内に含むサブカルチャーの弁証法的な発展の過渡を体現しているかのようで、筆者もその出現を嬉しく思ったものだ。
コロナ禍の最中でバンドは一時解散、あるいは停止状態にあったようだが、この記事を書いたおよそ2年後の今日、バンドは記念すべき最初のフルレングスを引っさげて再登場する事となった。直近の世界を暗く覆う「幻想的な」茶番劇に終止符が打たれつつあるとは到底言えず、ロシア・ウクライナを始めとした大きな動乱に揺れる国際情勢ではあるが、黙示録的な情勢だからこそ、その活躍が楽しみなバンドの一つだ。
Subhumans(UK)/Reason for Existence
(Reason For Existence EP、Spiderleg Records、1982年)
鈴木智士
あんたの存在理由は何?
信じるものはある?
それとも自分で書いた歌詞と生活が矛盾してる?
仕事は満足?
でも失業問題のデモにも行くでしょ
仕事はしたくないけど金は必要
避けられない現実でも金のために働きたい?
システムのために働きたい?選挙に行って大満足?
寄生する政治家たちはそのおかげで生きられる
投票なんてしたくないけど したほうがいいと思ってるでしょ
それは正しいことだって教えられたから
でも自分でその理由を考えたことはないでも自分の良心のために投票したい?
システムのために投票したい?給料をもらうために
軍隊に入隊して嬉しい?
理由もなく戦争で戦い
自分が腐っていくのを知らんぷりできる?でもお国のために戦いたい?
システムのために戦いたい?あんたは奴らの存在理由
奴らの資金のために生かされてるんだ
信念を持って叫ぶ言葉
それだけが自分の憎しみを表現する方法?
日本では未公開だが、2017年のアメリカ映画に“Bomb City”というものがある。この映画は1997年にテキサス州アマリロで実際に起きた、当時19歳のパンク少年Brian Denekeが殺害された事件を映画化したものだ。Brianはショウを企画したり、アートプロジェクトに関わったりと、地元のシーンではリーダーのように慕われていた真面目なパンクスだったらしい。両親とも関係はよかったが、パンク生活のことを心配されてもいた。パンクの格好をすることで、パンクのライフスタイルを送ることで嫌がらせを受けることが、特に地方部ではまだ日常茶飯事だった時代だ。そういった地元の緊張が高校生アメフト選手との揉め事に発展し、その結果Brianはジョックの車に轢かれて亡くなった。そしてその後の裁判――これがこの事件の最悪な点でもあるのだが――でジョック野郎の弁護士は形勢不利と見るや、パンクの“悪”のライフスタイルを攻撃し始め(映画ではBrian役のジャケットに貼られたベイエリアのバンドFilthの有名なロゴ、“Destroy Everything”が引き合いに出される)、パンクスがいかに反社会的であるか印象操作することで、ジョック野郎を第一級殺人から“故殺”、10年の保護観察処分へと「減刑」することに成功。この裁判の結果も含め、当時この事件はアメリカ中で大きく報道された。この映画は裁判の模様もカットバックさせながら、過度に感情的になることなく、過酷なパンク生活――警察から受ける暴力、パンクハウスの家賃の工面、社会からドロップアウトしてパンクに流れついた少年少女たち――と事件の顛末を描くことに成功している。
そしてこの映画のエンドロールで流れるのが、1982年に7インチEPでリリースされたイギリスのアナーコ・パンク、Subhumansのこの曲だ。簡潔な歌詞からもわかるように、パンク生活のジレンマが端的に語られたシンプルなパンクソングだ。パンクの音楽をただ家で聴いているなら大した問題はないのかもしれないが、パンクのライフスタイルを選び実践することで生じる様々な矛盾は、身に覚えのある人も多いはずだ(もちろんその「ライフスタイル」を好きで選ぶわけでもなく、環境上そうするしかないという人も存在するが)。一方で政府なんかクソだと言いながらも、所得税、消費税などさまざまなかたちで税金をバッチリ取られて結果的に憎き政府を支えてしまい、選挙なんかで何も変わらないとは心のどこかで思いつつも、まわりの目が気になってやはり投票してしまう。生きてるだけで権力者が寄生してきて、金も命も吸い取り削られる社会がいつも眼前にあり、私たちはそこにただ生かされている。この曲では特に解決策が語られるわけでもなく、それは自分で見つけるんだ、とSubhumansのボーカルのDickは言いたいのかもしれない。映画“Bomb City”のBrianも、将来の展望なんかは何も持つことのできない、その日暮らしのパンクスだった。でも居場所を失った若者たちがあらゆるハラスメントから逃げてこられる場所――権力者の介在しない場所――を維持することによって、また彼の友人パンクスがジョックにボコボコにされたあと、そいつらにやり返しに行くことことによって、Brianは自分自身の矛盾をも乗り越えようとしていたようにも思える。社会にお国に“消費”されること。さらに言えばパンクを“消費”すること。そういったことから距離をおくことで、それぞれの「存在理由」は見えてくるのかもしれない。
(2021年4月)
Misery/Filth Of Mankind
(“S.D.S/Misery” Split LP、MCR Company、1992年)
黒杉研而
Miseryといえば、NauseaやApocalypse等と同様に北米で80年代後半に始動し、現在も活動するUS Crustのベテランバンドだ。イギリスの古典的なクラストともまた少し違う、重苦しいながらも時にMotörheadやGBH、後期Varukersを彷彿させるキャッチーなリフで攻めるかと思えば、AmebixやAxegrinderに比肩する荘厳さを纏う事もあるその独特のサウンドは、世界中のクラスティーズを虜にしてきた。2010年代にリリースされた2枚のアルバムはそれぞれ趣が異なりながらも、フックの効いた「これぞMisery節」が発揮された名盤だし、一昨年(本稿執筆当時)にはかれらのマスターピースと言える当スプリットがProfane Existenceよりリイシューされた。この曲は初期のかれらを象徴する名曲と言っていいだろう。“Early years”等、いくつかのコンピにも収録されているが、現在はこのリイシューが恐らく一番入手しやすいと思われる。89年の2枚のEP“Blindead” , “Born,Fed… Slaughtered”や1st LP “Production Thru Destruction”等で聴く事ができる、重油をぶち撒けた薄暗い室内で乱戦を繰り広げるが如くの暗鬱七転八倒ステンチコアに比べればややクリアな仕上がりで、上述したキャッチーさも幾分増したような音だが、基本的な方向性は変わっていない。
人類の過ちが赦される事はない
俺たちが踏みしめている大地を当たり前のものだと思ってやがる
嘘や裏切りでしかない金持ち共の対策が 癌で死にかけの地球を更に蝕む
こうして人類の過ちは嘘の内に隠蔽される
イカれた奴らに精神を歪められる事を拒め
食糧危機に人類はどう対応する?
オゾン層が完全に壊れてもこのまま享楽に浸り続けるのか?
破壊される俺たちの地球
俺たちが破壊した地球
(後略)
一瞥して、これが環境破壊に関してのものである事は明らかだ。「人新世」や「脱炭素」「SDGs」という言葉が近年ますます取りざたされるように、富裕層や社会の主流派でさえもそうした問題は一定認識し、「環境保護」を支持しさえもするが、「彼らのやり方は根本的な解決に繋がらないどころか、むしろ悪化させている。その場凌ぎの嘘八百に取り込まれてはいけない」…。そうした認識が反映されているように思うし、それは決してMiseryに限った話ではなく、80’sから00’sあたりまでのクラスト周辺のハードコアパンクに関して言えば、ある程度共有されていた認識だったように思う。
具体性はともかくとしても、資本主義や国家の問題と環境/動物倫理を一体的に捉えるような主張は、90年代のクラストやピースパンクと呼ばれるバンド群には頻繁に見られた。90年代は80年代に引き続き、社会運動として、また「テロリズム」を含む現象としてエコロジーや動物解放運動が激化した。Animal Liberation Front(動物解放戦線)やELF(地球解放戦線)、またはEarth First!などの「指導者なき抵抗」は、動物実験施設や工場畜産、地球環境や生態系の破壊を引き起こす研究機関などに対して、時に爆弾や放火などの破壊的手段も辞さない直接行動を展開。ConflictやAnti-system、Iconoclastなどが自らALFを名乗るほどその運動を強く支持していた事などからも伺えるように、既成の左翼運動ともまた違ったそうしたラディカルな直接行動に、当時の少なくないパンク/ハードコア勢が強い共感を寄せていたし、かくいう筆者もそこから影響を受けたひとりだ。
元は反戦/反核運動の現場においての実践として始まった、野宿者へのヴィーガン食提供支援等を主な活動とする“Food Not Bombs”に現在も多くのパンクスが参加し、支持を表明するように、パンク周辺文化の中には環境倫理や動物倫理に繋がる回路は数多くある。だがそれは、Miseryのいう「ホワイトカラーどもの嘘」のような、単に逃避的なライフスタイリズムとしてのそれを踏襲する事とは違うだろう。資本主義の下での格差や貧困、人種・性差別、そして戦争やファシズムの台頭に執拗に警鐘を鳴らしてきたMiseryや、有機的なパンクコミュニティ総体が支持してきた思想・実践としてのそれは、スーツを着た中流・上流階級や、セレブやヒップスターが地代を釣り上げてマイノリティを街から叩き出す事と一体で喧伝する「おしゃれでエシカルなヴィーガンライフ」とは対極に位置するものであり、「それはそれ、これはこれ」ではなく、「あれも、これも」問題として捉えるためのものだ。「ヒップスターや金持ちが言う事であろうと正しいものは正しいし、環境問題や動物倫理は全人類的課題ではないか」、それは一面においてそうだろう。だが、Extreme Noise TerrorやElectro Hippiesが何故軍需産業/イスラエル支援企業でもあるマクドナルドを槍玉に挙げたのか等、既存のクラシックなパンク・ミームとその政治的背景を思い起こし、その理由に立ち返ってみれば「それはそれ」が孕む危険性というのもおのずと見えてくるのではないだろうか。少なくともかつての、ある時期までのハードコアパンクにとって、それらは「いずれも問題」だったのではないかと筆者は思うのだ。
2020年10月に出版した『ハードコア・パンクの歌詞を読む ―Debacle Path 別冊1』の在庫が切れて久しいので、記事をウェブサイトに掲載しました。
(※寄稿者Q&Aは紙版にのみ掲載しています。)
取り扱い店でまだ紙版の在庫を持っているお店もありますので、紙版がほしい方は各店にお問い合わせください。
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