【書評】Black Heart Fades Blue/Jerry A. Lang (Poison Idea他)

重くてぶ厚いハードコア・“パンク”・ジャンキーの物語
【書評】Black Heart Fades Blue vol.1~3/Jerry A. Lang (Rare Bird Books, 2022年)

鈴木智士(Gray Window Press)

vol.1

 Poison Ideaのボーカル、ジェリー・Aの自伝、もしくは解説付きの歌詞集が読めたらどんなに嬉しいだろう……。そんなことを、2019年11月の最後の来日ツアーを見てからしばらく考えていた。新代田Feverで見たそのライブは、バンドとしてもまとまっていてとてもよかった(いい感じにダラダラと「ルイ・ルイ」のカバーをやったりもしていた)。この夜はMCで曲の説明も長めにいくつかあって、 “Alan’s on Fire”について、相手にされない妻子の眼の前で焼身自殺した男の話などには、なぜか感動すらしてしまった。そんな体験がしばらく尾を引いていた中、ジェリー氏(と以降ここでは呼ぶことにする)はすでに自伝を書き終えている、という情報をどこかのポッドキャストで耳にしたのは、確か新型コロナ禍が始まりアメリカの中年パンクYoutuberが増えた2020年の夏ごろだった。そして2022年に全3巻という非英語ネイティブ泣かせの大ボリュームで発売されたのが、“Black Heart Fades Blue”というタイトルの本書である。

 3冊合計で600ページを超える、昔のジェリー氏みたいにサイズの大きな自伝だが、誰かにこの本の第一印象を聞かれたら、私は「ウィリアム・バロウズの『ジャンキー』のパンク版」と答えるだろう。冗談ではなく、本当にドラッグ、特にヘロインにまつわる話ばかりなのである。文字通りのハードコア・“パンク”・ジャンキーの物語だ(未読だが、ニッキー・シックスの自伝『ヘロイン・ダイアリーズ』もそのタイトルから察するに、似たような話なのだろうか)。バロウズの『ジャンキー』ばりに、あれこれと絶えず起きるドラッグをめぐるトラブル、自分やまわりのジャンキーの生態、売人たちの話、飲酒も含めて20年くらいシラフでいたことがなかったジェリー氏、そしてドラッグ使用がたたって太り、膿瘍ができ、C型肝炎になり、糖尿も酷く、何度か死にかけ……、などなど、おそらく全体の70%、第2巻にいたってはほぼすべての章に、何らかのドラッグ関連のエピソードが登場すると言ってもいい。パンクに“こういった”側面があることは誰もが知る事実だと思うが、ジェリー氏がここまでのジャンキーだったとは知らなかった。Poison Ideaのドキュメンタリー、“Legacy of Dysfunction”(2017年、日本未公開)でもドラッグの話は当然出てきたが、私はどうやらPIというバンド、さらにはジェリー氏へのドラッグの影響を過小評価しすぎていたようである……。
 もちろん本書にはそれ以外のPIの話――当時どういうバンドがいて、どういうバンドと対バンしたとか、シーンの変化とか、自伝本には必ず載るそういったパンク史的情報も、ポートランドでずっとやってきたバンドなので特にポートランドに関連するものはあるにはあるが、この表紙以外にただの一枚も写真やフライヤーが登場しない、文字で埋め尽くされた本書の主題は、ジャンキーであったジェリー氏の生き様である。
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【寄稿】初期あぶらだこの歌詞が描きだす日本のリアルな情景

初期あぶらだこの歌詞が描きだす日本のリアルな情景
楠間あゆ

 80年代前半のパンクバンドの中であぶらだこは異彩を放っていた。歌詞表現の秀逸さと、独特の世界観は類を見ず、40年経った今でも色あせていない。
 私が初めてあぶらだこを知ったのは1983年に『Great Punk Hits』というオムニバスアルバムが出たころで、私は高校生だった。このアルバムに収録されたあぶらだこのヴォーカリストの声は、当時私が持っていた「普通のパンク」のイメージからはあまりにも乖離していたが、密度の高い緊張した音とスピード感ゆえに、私の一番のお気に入りになった。そのアルバムに歌詞は提供されていなかったが、「がなり立てているのだから、どうせ聞き取れないだろう」くらいに思い、あまり注意を払わなかった。しかしその後、渋谷だか新宿だかのライブハウスで初めてあぶらだこを観た私はうろたえ、「好き」なんてとても言えないと思った。というのは、ヴォーカルのヒロトモ氏は眉を剃り、詰襟の制服という、いわゆる長ランのツッパリ(今で言うヤンキー)スタイルだったからである。ツッパリは学生のうちは教師という権威に反抗するという点でパンクスと重なる部分があるものの、学校以外の権威には従い男尊女卑バリバリだ。だから私はツッパリが大っ嫌いで、ヒロトモ氏の格好を見て「パンクなのになぜ」とショックだった。ストレートな政治的スローガンや服装、行動や態度—それらがセットでパンクなのだと当時の私は思っていて、あぶらだこのライブの様子はその規格外だった。そんな単純さゆえに、私はつい最近まであぶらだこを無視していた。
 しかし最近になって、ツイッターに投稿された安保法制反対のデモのビデオを目にした時、ずっと忘れていた、不明瞭なあぶらだこの歌詞が脳内に突然浮かんだ。ビデオの中では仏教の僧侶たちが集団で為政者たちを呪う姿があり、デモと宗教という私にとっては全くかけ離れた二つが一つになっていた。そこには自分がこれまで知らなかった「怖さ」というものが確かにあり、その映像が私に、そういえばあぶらだこも「呪い殺せ」とか、「神が語ったことば」などと歌っていたな、と思い出させたのだ。その歌詞が表現する世界は、私が高校時代に「パンクらしい」と信じていたような、単純なスローガンとは違う地平にある何かなのだ。その気づきが、この記事を書くことにした理由である。
 この記事では初期のコンピレーション・アルバム『ADK Years 1983-1985』(以下『1983-1985』) にフォーカスし、前半ではアルバム全般の背景を扱う。後半では例として初期あぶらだこの代表曲と言える「米ニスト」の歌詞を取り上げ、アルバム全般の背景と関連づけて掘り下げ、解釈を展開する。
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Harum-Scarum/Fear【続ハードコア・パンクの歌詞を読む―Debacle Path Online】

Harum-Scarum/Fear
(“The Last Light” LP, Partners in Crime, 2004年)
渡邉(MATERIALO DISKO)

 90年代終盤から00年代半ばまでポートランドを拠点に活動したHarum-Scarum。音楽性について言及するならば、1stアルバムまでは一言で「〇〇風」との形容をし難いスタイルの楽曲、そして絞り出される様なボーカルと歌心のあるコーラスの掛け合いが彼女たちの独自性を際立たせていたが、最初のボーカリストが抜けた後に3人編成で製作された2ndアルバム以降、そのスタイルは打って変わって非常にメロディックでエモーショナルなアプローチとなった。
 歌詞の中では何か明確なスローガンを掲げている訳ではないのだが、直接自らの経験から吐かれたであろうその言葉には、各々の内面の変革によって社会の変革を求めるという意思が強く感じられる。
 また1stアルバムに収録されたうちの2曲、アメリカによる軍事侵攻を歌った“As Civilians Die”、司法・死刑制度について歌った“Systematic Death”が以降のアルバムでも再録され収録されているが、それは結成当初から一貫して変わらなかった彼女たちの姿勢の現れであったのではないかと私は捉えている。
 そのようなHarum-Scarumだが、今回取り上げるのはラスト音源となった3rdアルバム“The Last Light”に収録された楽曲“Fear”だ。

遅れた反応/それは時に来ないこともある/すべてが無感覚になるまで突かれ/私の周りのもの全てへの恐怖/私の目に映るものすべてへの恐怖/癌のフィルムが全てを覆う/美しさを曇らせる/尊厳のかけらも全て失う/恐怖が引き金を引いた混乱/感情、それは完全に死んではいない/休眠状態だ/イメージが溢れ出てきて、私は叫びと共に目を覚ます/世界の終わりはもうすぐなのか?/それを望むこともある/恐怖… 癌のフィルム/恐怖… すべてを覆う/恐怖… 美しさを曇らせる/恐怖… 尊厳のかけらも全て失う/恐怖が引き金を引いた混乱

 「恐怖」。それによって私たちの生活が左右されているということは言うまでも無いだろう。専制国家的なあからさまな「恐怖による統治」という事ではなくとも、ここ日本のように名目上「民主国家」とされる国々に於いてもその事は明らかだ。
 このアルバムがリリースされる3年前、かの同時多発テロ事件に端を発し、テロ組織の撲滅という大義名分のもと、アメリカは世界中を巻き込んでアフガニスタンへの軍事行動におよんだ。この事は同年アメリカ国内におけるアラブ系住民やイスラム教徒に対するヘイトクライムが増大したという事実ともちろん無関係ではない。当時、政府やメディアの反応は、「アラブ系住民やイスラム教徒=テロリスト=生活を脅かす脅威」というイメージを私たちに植え付けかねないものであった。ここで歌われた「恐怖が引き金をひいた混乱」が具体的に何であったかは明言されていないが、少なからずこの事を当てはめて考えることも出来る。泥沼化する状況、止まないヘイトクライム。「世界の終わりはもうすぐなのか?/それを望むこともある」という言葉は、そういった状況に打ちひしがれた中で出てきたものとも考えられないだろうか。

 近年で言えば日本に於いても隣国の軍事演習に対し、政府とメディアによるまるで私たちの恐怖心を煽るかのような過剰な反応・報道が続いたのも記憶に新しい。そのような情報は往々にして特定の人々へのスティグマを生じさせかねないし、それによって草の根レベルの差別が助長される事にもなる。植え付けられる恐怖心は私たちを分断する。
 恐怖・不安から懐疑心が生じて誰かを標的とする事はないか。その前に一度自問してみる余地はあるだろう。 
(2022年4月)
            

Rigorous Institution/World of Illusion【続ハードコア・パンクの歌詞を読む―Debacle Path Online】

Rigorous Institution/World of Illusion
(“The Coming of the Terror” EP, Whisper in Darkness, 2019年)
黒杉研而

 ポートランドでは今も素晴らしいパンク/ハードコアのバンドが数多く活動しているし、近年はDecompやGenogeistといったクラスト色の強いバンドも盛り返してきているようだ。そしてその中でも一際異彩を放っているのが、Pig DNAやDeskonocidosなどのメンバーによって結成されたRigorous Institutionだ。DecompやGenogeistが、同郷の雄Hellshockを彷彿させる、比較的ギミックの少ない突進型ステンチコアであるのに対して、こちらはHellhammerやCeltic Frost、Venom等のProto-Black metal、そしてそれらに触発されたAmebixの強い影響を匂わせる。しゃがれたボーカルは露骨にBaronのそれを踏襲したかのようだ。タム回しを活かした重厚なグルーヴを適宜織り込みながらも、多くの曲が冗長にならず2分前後で終わるという潔さもいい。ほぼ全ての曲に入るシンセのPadサウンドが幻想的な雰囲気を彩っているが、それは単なる装飾ではなく、このバンドのサウンドやキャラクターにとって、比較的高い位置を占めているようにも思える。それはかれらを賞賛する人々が「クトゥルフ」や「ダンジョン・シンセ」等の文脈に擬えてかれらの音楽やアートワークを語る様からも伺えよう。
https://www.noecho.net/song-of-the-day/rigorous-institution-band

  シンセ奏者のMattyはDecompのボーカルCodyのパートナーでもあるようだが、Hawkwindの80年代の名盤“The Chronicle of the Black Sword”のとある曲名をアカウント名に拵えた彼女のインスタ・アカウントは、コミックや小説を始めとした、SFやファンタジー、ホラー等のスペキュレイティブ・フィクションネタの宝庫だ。DIY家具職人としても活躍しているらしい彼女の存在は、きっとこのバンドのカラーに多大なる貢献を果たしているに違いない。

所与の舞台で役柄を演じるだけのお前
燃え盛る回廊に囚われた自我
悲劇を眺め、喜劇を眺め、そして頁をめくる ― 幻想の世界で、ただ与えられた情景を消費する

空疎な青写真との観念的同盟
意味のないパントマイム
魔術師の被造物、光のトリック ― 幻想の世界で、鏡の広間に誂えられた完璧な牢獄

お前は監視されていると感じ、裁かれていると感じる
あたかも巨万の民の所有であるかのように 重く、長大な鎖に自らを括り付けた
巨万の精神に拘束されたのだ

愚か者よ、目を覚ませ! 手遅れになる前に
薬漬けのまどろみから立ち上がり、幻想の世界を打ち破れ

 Black Waterと肩を並べるWhisper in Darknessのレーベル名がラヴクラフトの著作からの拝借であるように、北米のクラストも前述のスペキュレイティブ・フィクションからのインスピレーションを比較的積極的に用いる印象だ。それ自体は何もクラストに限った話ではなく、パンク、あるいはロック以降のポピュラー音楽全般を俯瞰すれば、とりわけ珍しい事ではない。ただ、パンクバンドやメタル界隈でのフィクションの引用が、メインストリームな界隈でのフィクションのオマージュetcと質を異にする点を敢えて挙げるとすれば、それは文学的修辞・装飾や表現としての審美性の域を超えたものであるという事ではないだろうか。
 それは屡々、私たちが単に逃避的に幻想の世界に耽る事を良しとせず、むしろフィクションからのインスピレーションを通じてこの現実社会を見渡す事を私たちに迫るものであり、また現世はフィクション以上に奇異で不条理な、荒廃した世界であるという事を私たちに突き付けるものでもある。「悲劇を眺め~」の一節に、スマートフォンという便利なポータブル・デバイスに生そのものを規定されてしまっている私たちの姿を重ねたり、SNSでの止む事なく矢継ぎ早に訪れる不毛な「炎上」文化、それに付随しがちな、無益なヘゲモニー合戦へのある種の軽蔑のような感情を読み取るのは、決して的外れではないだろう。それらは消費的で従属的な人間の生き方であるという評価を下してしまう事も、いわゆるパンク・レトリック的には可能だからだ。

 「薬漬けのまどろみ」が北米での深刻なドラッグ問題を揶揄しているのかは定かではないが、それは自身らが属するコミュニティで生起しがちな“歪み”をも内在的に批判しているようにも受け取れる。パンクやメタルはサブカルチャーに熱狂するドロップアウトしたユースを鼓舞し、エンパワメントする文化には違いないが、常に完璧なものではなかった。一般的な社会通念や規範意識を遠ざけるコミュニティが私たちに与える逸脱的な経験のいくつかは、時に個人の目を社会的な事実から背けさせ、ある種の迷妄へと走らせるものとしても作用する。どんな文化も、それ自体として独立に存在しているという事はなく、周縁的なものとの相互的な干渉や対立、あるいはある種の「妥協」をその内に孕みつつ存在している。其処には、依然として私たちを眩惑の世界へと誘う道が無数に待ち受けているのであり、個人がひとたび選択を誤れば、立ち向かうべき対象をいつしか見誤ってしまうという事も起こり得る。
 終末の世に産み落とされた、パンクとメタルの鬼子とでも言うべきこのバンドの鵺的な性質そのものが、肯定も否定も無い混ぜの、矛盾をその内に含むサブカルチャーの弁証法的な発展の過渡を体現しているかのようで、筆者もその出現を嬉しく思ったものだ。
 コロナ禍の最中でバンドは一時解散、あるいは停止状態にあったようだが、この記事を書いたおよそ2年後の今日、バンドは記念すべき最初のフルレングスを引っさげて再登場する事となった。直近の世界を暗く覆う「幻想的な」茶番劇に終止符が打たれつつあるとは到底言えず、ロシア・ウクライナを始めとした大きな動乱に揺れる国際情勢ではあるが、黙示録的な情勢だからこそ、その活躍が楽しみなバンドの一つだ。

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Subhumans/Reason for Existence【続ハードコア・パンクの歌詞を読む―Debacle Path Online】

Subhumans(UK)/Reason for Existence
(Reason For Existence EP、Spiderleg Records、1982年)
鈴木智士

あんたの存在理由は何?
信じるものはある?
それとも自分で書いた歌詞と生活が矛盾してる?
仕事は満足?
でも失業問題のデモにも行くでしょ
仕事はしたくないけど金は必要
避けられない現実

でも金のために働きたい?
システムのために働きたい?

選挙に行って大満足?
寄生する政治家たちはそのおかげで生きられる
投票なんてしたくないけど したほうがいいと思ってるでしょ
それは正しいことだって教えられたから
でも自分でその理由を考えたことはない

でも自分の良心のために投票したい?
システムのために投票したい?

給料をもらうために
軍隊に入隊して嬉しい?
理由もなく戦争で戦い
自分が腐っていくのを知らんぷりできる?

でもお国のために戦いたい?
システムのために戦いたい?

あんたは奴らの存在理由
奴らの資金のために生かされてるんだ
信念を持って叫ぶ言葉
それだけが自分の憎しみを表現する方法?

 日本では未公開だが、2017年のアメリカ映画に“Bomb City”というものがある。この映画は1997年にテキサス州アマリロで実際に起きた、当時19歳のパンク少年Brian Denekeが殺害された事件を映画化したものだ。Brianはショウを企画したり、アートプロジェクトに関わったりと、地元のシーンではリーダーのように慕われていた真面目なパンクスだったらしい。両親とも関係はよかったが、パンク生活のことを心配されてもいた。パンクの格好をすることで、パンクのライフスタイルを送ることで嫌がらせを受けることが、特に地方部ではまだ日常茶飯事だった時代だ。そういった地元の緊張が高校生アメフト選手との揉め事に発展し、その結果Brianはジョックの車に轢かれて亡くなった。そしてその後の裁判――これがこの事件の最悪な点でもあるのだが――でジョック野郎の弁護士は形勢不利と見るや、パンクの“悪”のライフスタイルを攻撃し始め(映画ではBrian役のジャケットに貼られたベイエリアのバンドFilthの有名なロゴ、“Destroy Everything”が引き合いに出される)、パンクスがいかに反社会的であるか印象操作することで、ジョック野郎を第一級殺人から“故殺”、10年の保護観察処分へと「減刑」することに成功。この裁判の結果も含め、当時この事件はアメリカ中で大きく報道された。この映画は裁判の模様もカットバックさせながら、過度に感情的になることなく、過酷なパンク生活――警察から受ける暴力、パンクハウスの家賃の工面、社会からドロップアウトしてパンクに流れついた少年少女たち――と事件の顛末を描くことに成功している。
 そしてこの映画のエンドロールで流れるのが、1982年に7インチEPでリリースされたイギリスのアナーコ・パンク、Subhumansのこの曲だ。簡潔な歌詞からもわかるように、パンク生活のジレンマが端的に語られたシンプルなパンクソングだ。パンクの音楽をただ家で聴いているなら大した問題はないのかもしれないが、パンクのライフスタイルを選び実践することで生じる様々な矛盾は、身に覚えのある人も多いはずだ(もちろんその「ライフスタイル」を好きで選ぶわけでもなく、環境上そうするしかないという人も存在するが)。一方で政府なんかクソだと言いながらも、所得税、消費税などさまざまなかたちで税金をバッチリ取られて結果的に憎き政府を支えてしまい、選挙なんかで何も変わらないとは心のどこかで思いつつも、まわりの目が気になってやはり投票してしまう。生きてるだけで権力者が寄生してきて、金も命も吸い取り削られる社会がいつも眼前にあり、私たちはそこにただ生かされている。この曲では特に解決策が語られるわけでもなく、それは自分で見つけるんだ、とSubhumansのボーカルのDickは言いたいのかもしれない。映画“Bomb City”のBrianも、将来の展望なんかは何も持つことのできない、その日暮らしのパンクスだった。でも居場所を失った若者たちがあらゆるハラスメントから逃げてこられる場所――権力者の介在しない場所――を維持することによって、また彼の友人パンクスがジョックにボコボコにされたあと、そいつらにやり返しに行くことことによって、Brianは自分自身の矛盾をも乗り越えようとしていたようにも思える。社会にお国に“消費”されること。さらに言えばパンクを“消費”すること。そういったことから距離をおくことで、それぞれの「存在理由」は見えてくるのかもしれない。
(2021年4月)