【Debacle Path vol.1より】Antisect小史――昔のAntisect、今のAntisect

Antisect小史――昔のAntisect、今のAntisect
鈴木 智士
(Debacle Path vol.1(2019年3月)より再掲)

2017年に、34年振りのフルアルバム、『The Rising of the Lights』をリリースしたUKアナーコ・パンクの「伝説」Antisect。今回はオリジナルボーカルのピート・ボイス氏に話を聞き、そのアルバムの発売前にネットを賑わせた「問題」に焦点を当てながら、バンドの歴史を追った。
※本稿は、2018年7月に執筆したまま、特に何の媒体にも載らなかったものに、加筆修正を施し掲載したものです。ピート・ボイス氏へのインタビューは同年5月~6月に行われました。


醜聞

 世の中に存在する「表現」すべてにあてはまることだろうが、いわゆる「マスターピース」というか、これがなければ今日の表現は存在しなかった、と思えるような作品や表現者は、誰しも必ず心の中に一つや二つ持っているだろう。ポーの「黒猫」や「アッシャー家の崩壊」などの一連の作品群がなければ怪奇小説は隆盛しなかっただろうし、イングマール・ベルイマンがいなければ今我々が見ている映画も、もしかしたら全然違ったものになっていたのかもしれない。いや、別にベルイマンじゃなくてもいいんだけど、この前生誕百周年特集の予告を見たので……。
 さて、それを突然だがアナーコ・パンクにあてはめてみると、CrassやConflict, Crucifixなど、いくつか思い当たるバンドがあるが、イギリスのAntisectこそがその最たるものの一つだと言っても特に文句はないはずだ。彼らのファーストLP『In Darkness There Is No Choice』(1983年)が漂わせる始終張り詰めた緊張感は、凡百のバンドに出せるものではないし、その歌詞は、動物の権利や監視社会、「第三世界」の不平等など、当時のバンドの多くが扱っていたものだが、あのトリプルボーカルで説教のように捲し立てるボーカリゼーションの攻撃性は、今聞いてもまったく衰えを感じない。おまけに「Channel Zero (Reality)」なんかは、完全にその後の世界を予見していた。ラインナップが変わり、そのアルバムの二年後にリリースされたEP『Out from the Void』にいたっては、あのリフやアートワークの世界観にやられたパンクスは数知れず。AntisectのTシャツ、パッチやペイントは今でもそこらじゅうで見るし(特に日本ではよく見る気がする)、それらのリリースから30年以上が経った今でも、引き続き多くのパンクスに影響を与え続けているバンドである。

 さて、本稿では、2018年11月には初の来日ツアーを終えた、そのAntisectの歴史を簡単に振り返ろうと思う。2011年、24年振りに活動を再開したAntisectだが、再結成後も幾度かのメンバーチェンジを経て、現在はオリジナルメンバーのひとり、「ミスター・Antisect」こと、ギターのピート・“リッピー”・ライオンズ、再結成時からバンドに加わったドラマーのジョー・バーウッドに、『Out from the Void』時代のベース、ジョン・ブライソンを迎え、スリーピースで活動している。そのラインナップで2017、アルバムとしては34年振りとなる『The Rising of the Lights』(以下「新アルバム」と呼ぶ)を、リー・ドリアンのRise Above Recordsからリリースした。そしてこの新アルバムが、その音楽性の変化だけではなく、様々なレベルにおいて物議をかもしたのも有名な話だ。今回はその「有名な話」のひとつ、ソーシャルメディア上でのバンドのゴタゴタを中心に話を進めていきたい。

 こんなことを取り上げるなんて、とてもおせっかいなことなのかもしれないが、先述のように、Antisectはアナーコ・パンクを語る上で欠かすことの出来ないバンドのひとつだ。再結成したと聞いたときには、驚き半分嬉しさ半分、ライブも見てみたいなあと思ってはいた。ただ、新アルバム、いや、そのリリースの前にYouTubeに公開されたアルバム収録の新曲――一連の議論の発端になった曲だが――を聞いたときには、何と言っていいかわからない、肩透かし、虚脱感のようなものを感じた、というのが正直な気持ちだった。Antisectのようなバンドに関して言えば、若い頃にその「マスターピース」を聞いてしまったがために、その後の人生を狂わされた人も多いことだろう。そんな強い影響力を持ったバンドの新譜が、これまで「狂わされ」てきたものとまったく違うとなると、これは由々しき事態だ。ついでに言っておくと、個人的な話になるが、2012年にヨーロッパを旅行していた時、一週間ほど滞在したロンドンでお世話になった友人が、当時Antisectのマネージャーみたいなことをしていて、「日本ツアーしたいんだけど」という話を振られたりした。私なんかの手に負える規模のバンドではないことは明らかなので、国内のお願いできそうな友人数人に一応話を振ったが、金銭的な話も絡んで折り合わず。その後その友人はマネージャーを辞め、日本ツアーの話も雲散霧消。というわけで、ちょっとした個人的つながりもあり、その動向はその後もずっと気にはなっていたのだった。

 さて、この、「醜聞」と言ってしまってもいい話ではあると思うが、実はフェイスブック上ではかなり有名な話で、そんなこととうの昔に知っている、という人もいるかもしれない(そんな方にはこのような駄文を読むのに時間を使ってもらっては申し訳ないので、どうぞ他の記事へ進んでください)。2017年のその新アルバムのリリースの発表があったあたりから、フェイスブック上で「炎上」していたのを何度か目撃した。私が最初に見たのは、なぜかSore Throatのフェイスブックページにおいてだったが、特に火の元となったのが、“Antisect Unofficial”という、現バンドへの批判がつらつらと書かれたフェイスブックのページだ。おそらくその一部始終が知れ渡った英語圏やヨーロッパでは、アルバム発売後のバンドに興味を失った人も多いようで、2018年の4月ごろにAntisectがアメリカツアーをしていたときに、彼らのライブを見た人たちの反応についても、「『あれはちょっと…』って感じだったぜ」と、オークランドに住む友人がメッセージを送ってきた。

 この興味のない人には本当にどうでもいい三面記事にご登場いただくのは、Antisectのオリジナルのボーカルであるピート・ボイス氏だ。最初にネタバレをしておくが、先述の “Antisect Unofficial”ページの「中の人」が、このボイス氏らしい。元メンバーがSNSで堂々と現バンドを批判……。しかも中には批判を超え、怨み節に近いような投稿すらある。余程のことがあったのだろう。バンドの新曲を聞き、そのフェイスブック上での炎上を目撃し、モヤモヤしていた私は、ピート・ボイス氏にコンタクトして、バンドの歴史から今回の「騒動」まで、色々聞いてみることにした。続きを読む →

「アナキズム」紙 第4号に寄稿しました

今年4月から発行が始まった月刊紙、「アナキズム」の第4号(2020/7/1発売)に、当レーベルやDebacle Pathの紹介記事を書かせてもらいました。
東京だと模索舎などで買えます。

月刊情報紙 アナキズム blogsite: https://green.ap.teacup.com/inazumaya/

【書評】Hard-Core: Life of My Own / Harley Flanagan

【書評】
Hard-Core: Life of My Own / Harley Flanagan(Feral House, 2016)
/鈴木 智士(Gray Window Press)

 ちょうど1年前に、「“Cro-Mags”の名称を誰が使うか問題」に決着がついた、という出来事もあったが、アメリカン・ハードコアの歴史の中で、Cro-Magsのメンバーほど「お騒がせ」な人たちもいないだろう。80年代中盤の結成時から、メンバーは出たり入ったり替わったり、その後は様々なバンド名でCro-Magsの(特に1stアルバムの)曲を演奏し、一体何が「本物」なのかと聞く側は混乱した。ただバンドのオリジナル・メンバーであり、ベース(と時にはヴォーカル)を担当してきたハーレー・フラナガン氏によるこの自伝は、その数々の「お騒がせ」のディテールを知る前に、その幼少期にまず驚かされる。
 父はネイティブ・アメリカンの血も入っていたという強盗・サギ師・犯罪者。アメリカの西と東を行き来し、マンソン・ファミリーにスパーンランチに連れて行かれそうになったというヒッピーだった母は、「奇人」ハリー・スミスに“Rosebud”という名前で呼ばれ、ハリー・スミスの「精神的な妻」であったという(この点は先日『ハリー・スミスは語る』を出版されたカンパニー社さんからtwitter上で教えていただいた)。そんな両親はハリー・スミスを通して知り合ったが、ハーレーが生まれてすぐに父は姿を消し、母は幼いハーレーを連れてアメリカ中を、そしてヨーロッパをヒッチハイクで生活するようになる。やがて母はデンマークでドラッグの売人の男と付き合い始め、2人はデンマークに住み着き、有名なChristianiaを含め様々なコミューンを渡り歩いたらしい。「フリーラブ」の世界で誰彼かまわずセックスする親たち世代を見て、ハーレーのような子どもたちは思春期を迎える前にアルコール、ドラッグ、セックスを覚えたというから、やはりデンマークという国が現在もおかしい(褒め言葉)のはこういうところに根があるのかもしれない。
 6歳の頃にデンマークのアート偏重フリースクールでドラムを覚え、その後家族はモロッコに数ヶ月住み、そこでハーレーが書いた絵と短編は、その2年後、ハーレー9歳のときにアレン・ギンズバーグの序文付きで出版されている。母や後にStimulatorsで一緒にバンドをやる叔母のDenisはギンズバーグと近く(叔母はニューヨークで他にリチャード・ヘルやらと一緒に住んでいたこともあった)、この頃ハレー・クリシュナの始祖プラブパーダと親交があったギンズバーグから、ハーレーは瞑想を教わったとも書いている。
 ハーレーの初のパンク・ショウは1977年頃のデンマークで、Lost Kids、Sods、Brats(後のMercyful Fate)などを見て、78年には叔母に連れられてイギリスにも行き、「死ぬ前」のオリジナル・パンクを体験してもいる。その後79年に母子はニューヨークに戻り、当時はプエルトリコ人ギャングと黒人ギャングの抗争の場であったマンハッタンのゲットー、ローワーイーストサイド(LES)に移り住む。
 と、この時点でハーレーの早熟ぶりとその環境の特異さにまず驚愕する。10歳にもならないうちにパンクに出会う人はこの世代だったら珍しくはないだろうが、身近にビート・ジェネレーションを代表する詩人がおり、またパンクバンドをやっている身内の女性がいたというのはあまり聞くことのないシチュエーションだ。その後はご存知のように12歳でStimulatorsのドラムを叩き始めるが、1979年2月のシド・ヴィシャスの死により、ニューヨークのパンク・ロックは死んだとハーレー自身も把握しているように、Stimulatorsは(先月末に出たEl Zine vol.42にヴォーカルのスクリーミング・マッド・ジョージ氏のとても面白いインタビューが載っていた)The Mad、Bad Brainsらとともに、NYCのパンクからハードコアへ移行する過程の架け橋のようなバンドとなっていく。CBGBとともに、Max’s Kansas Cityというクラブでパンクのライブが行われていた時代の話だ。続きを読む →

【時評】メディア掲載情報

【Debacle Path vol.2】
「図書新聞」2020年5月9日号(3447号)掲載の、文芸評論家の岡和田晃氏の連載、「〈世界内戦〉下の文芸時評」第63回で、Debacle Path vol.2のジェフ・エヴァンス、マックス・ウォードとのインタビューについて少し触れてもらっています。
ジェフとのインタビューにも出てきますが、岡和田氏は以前Skavenについて、「トーキングヘッズ叢書(TH、アトリエサード)」にRPGゲームの側面から面白い記事を書かれているので、本インタビューを読まれた方はそちらもぜひ読んでみてください。