ハードコア・パンク、宗教、個 -Interview with Justin Marler

(2015/12/29 旧ブログより)

EL ZINE vol.19に掲載してもらった拙稿、アメリカのストナーロックバンドSLEEPの初期のメンバーで、その後THE SABIANSなどをやっていたジャスティン・マーラーへのインタビュー記事を、こちらにも載せておきます。
ここに載せた写真以外にも、マーラーからはSLEEPやTHE SABIANS時代の写真を提供してもらいましたが、そちらはEL ZINEを買ってご覧ください。


ハードコア・パンク、宗教、個 -Interview with Justin Marler-
(EL ZINE vol.19に掲載)

 様々な音楽や思想を次々に飲み込んでは、怒涛のように吐き出してきた、ハードコア・パンクという玉虫色の巨塊。それは時には宗教すらも内包してきた。本稿ではハードコア・パンクが宗教と接続したことについて、キリスト教のある教派を信じるに至った元SLEEPのメンバーへのインタビューを行い、その実態を聞いた。そこから敷衍して、「個」について、ハードコア・パンクの可能性についても考えてみた。

ハードコア・パンクと宗教

 ハードコア・パンクと宗教。一見相反するように思えるこの2つだが、ハードコア・パンクの歴史において、少なからずこれらがリンクしたのも事実だ。もちろん住む国や文化によって宗教と接する機会は全然違うのでそれが出現した地域は偏るが(日本に住んでいるとあまり意識することはないだろう)、有名なところでは、ニューヨーク・ハードコアの歴史の中で、例えばYOUTH OF TODAYのボーカルのレイ・キャポがハレー・クリシュナにハマり、SHELTERに代表されるような「クリシュナ・コア」が流行ったこともあった(彼は今はニューヨークでヨガの先生をやっているらしい)。クリシュナと言えば、CRO-MAGSのボーカルのジョン・ジョセフは、「ハードコアは精神だ」なんていう、この2つの結びつきを示唆するようなことも言っている。あと元JUDGEのベーシストのジミー・ユウは仏教徒になり、今はその手の学者だという。
 また、不勉強なので詳しいことが書けないのが恐縮だが、Taqwacoreという、欧米でイスラム教の若者とパンクが結びついた動きもある。「Taqwa」とはアラビア語で「神への畏怖」のような意味らしいが、伝統的なイスラム教の教えではなく、独自の解釈を加えたムスリムとパンク(やヒップホップなど)が交錯して起きたムーブメントだ。アメリカ出身のマイケル・ムハンマド・ナイトという人が、その名も『The Taqwacores』という小説を書いて、映画にもなっているようだが、日本では今のところ未翻訳・未公開。またその他、その名も「クリスチャン・ハードコア」なんていう直球カテゴリーも存在する。特にアメリカに多いのが特徴的だが、こういったハードコア・パンクと宗教のリンクはその歴史の中で生まれ、根を張っていったのである。
 ただやはりAMEBIXが「No gods no masters」と歌ったように、宗教というのは個人の自由を限定し、権力構造の中に人を縛り付けるものであり、それはハードコア・パンクの礎であり、絶対的な個人の自由をうたうアナキズムとは真っ向から衝突することになる。CRASSが「Reality Asylum」や「Big A Little A」などの曲でキリスト教を徹底的に批判したのは有名な話だし、DEAD KENNEDYSは「Moral Majority」という、アメリカのキリスト教右派で共和党の支援団体(今のニッポンの「日本会議」みたいなものだ)を同タイトルの歌で非難。その他、宗教は戦争の源になっているだとか、個人の自由、金を収奪している悪しきシステムだ!というのはパンクバンドの歌詞に星の数ほど見られるし、基本的にはパンクと宗教は相反するものだと考えていいだろう。

ジャスティン・マーラーの場合

 さて、私は特に何かの宗教を信じているわけでもないし、どちらかと言えば猜疑心をもってそれを見るタイプの人間だが、このハードコア・パンクと宗教という2つのつながりがずっと気になっていた。宗教を信じるパンクスは、一体何を考えているんだろう、このやかましい音楽と信仰をどのように結びつけているのだろう、そんな単純な問いである。昔知り合ったイスラエル人アクティビストが、数年経ったらユダヤ教徒になっていたことがあったが、その理由は、自分を見つめ直して元々の生活圏に戻った、くらいしかわからなかったこともあった(もっとも彼は「パンクス」ではなかったが)。
 今回は改めてこのパンクと宗教について考えることで、宗教とその個人の関係、ひいてはハードコア・パンクと個人との関係が見えてこないだろうかと思い、ある人物にインタビューを行った。ストナーロックやドゥームメタルのファンのみならず、パンクスにも人気のアメリカの伝説的バンド、SLEEPの初期にギターを弾いていた、ジャスティン・マーラーがその人である。おい、パンクバンドじゃないじゃないかと考える方もいるかもしれないが、SLEEPはその前身バンド、ASBESTOSDEATHのレコードをあのProfane Existenceからリリースしているように、パンク人脈から派生したバンドだと考えていいだろう。
 SLEEPの他のメンバーは、周知のようにその後HIGH ON FIREやOMなどをやっており、メタルシーンでは彼らを知らない人はいないだろうが、そのSLEEPをアルバム1枚で辞めたジャスティン・マーラーは、日本ではあまり認知度のある人でもないから、ジャスティン・マーラー自身の言葉に入る前に、まず彼のバンド遍歴を辿ってみたい。ちなみに私は、彼が2000年代初めにやっていたTHE SABIANSというバンドの音楽がとても好きで、そのバンドを通して彼の数奇な人生を知り、いつか話を聞いてみたいと思っていた。それがこの記事を書くことになった動機の一つでもある。
 10代の終わりにSLEEPに加入し、最初のアルバム『Volume One』(1991年リリース)に関わったあと、彼は突然SLEEPを脱退し、キリスト教の教派の一つである東方正教会の修道士になる。ちなみに「正教会」というのは、ギリシャ正教やロシア正教などのような、いわゆる「オーソドックス」と言われる教派だ。カトリックやプロテスタントとの違いをここで簡単に説明するのは難しいが、正教会の歴史は、キリスト自身が作った教会と言われるように他の教派より古く、キリスト教の起源により忠実だということであろう。さて、7年を北カリフォルニアの修道院で過ごしたジャスティンは、その間、東方正教にかんするジンなどを作ったり、本を出したりもしていたらしい。その後オークランドに戻り、THE SABIANSを結成。2枚のアルバムを出してバンドは解散している。現在はテキサスに住みながら、旅行ライターをやったり住宅診断の会社を経営したりして、QUICK AND THE DEADというポップパンクみたいなバンドをやっている。
 さて、ここから実際に彼へのインタビューに入る。まず、誰もが気になるSLEEP脱退の理由や、なぜ東方正教会を選んだかについてだが、ジャスティン・マーラーは次のように語っている。

「SLEEPで最初のレコード(『Volume One』)をレコーディングしてから、私はとても落ち込んでいて、死んでしまいたいような心境でした。あのレコードの曲を書いたのが事をさらに悪くしたんだと思います。やってた音楽はめちゃくちゃヘヴィでダークでしたから。この時は神に祈りを捧げて、助けてもらうように願っていました。しばらくして、ロシア正教会の修道女に偶然出会って、彼女からキリスト教や正教会の信仰について教えてもらいました。キリストや十二使徒との歴史的な結びつきや、潤沢な神学的、精神的教えなど、私はすぐに正教会に魅了されました。その本質は、魂の治癒と、神と啓蒙との関わりのための浄化だということです。正教会の世界観は私には完璧に意味を成していました。2時間行ったところに修道院があると彼女から聞き、私はすぐにその修道院へ行き、結果的にそこで7年を過ごしました」

 SLEEPの『Volume One』は、その後の『Holy Mountain』(1992)や『Jerusalem』(1998)などと比べると、確かにキャッチーさはまだ少なく、重く引きずるような曲が多い。この影響もあり、鬱が悪化して絶望的になっていたところに、修道女との出会いがあり「救われた」ということらしい。
 ただ、SLEEPをやっていた時に、既に「神に祈りを捧げて、助けてもらう」と思っていたということだが、マーラーは元々キリスト教に近い環境にあったのだろうか。

「特に宗教的な実践をもって育てられたということはないですが、家族の多くは自身のことをプロテスタントだと考えていました。多分それは哲学的な見解や傾倒とは対照的に、もっとアメリカの文化的な意味でです。
ただ、私の祖父母は高徳な人たちで、おそらくキリスト教の種を私の心に蒔いていたんだと思います。SLEEPにいたときは自分をキリスト教だとは思っていませんでした。政治や資本主義とリンクしたアメリカ型のキリスト教的信仰とは距離を置きたいと思っていましたし。当時私は科学、生物学、仏教、イスラム教、ユダヤ教を勉強していました。これらの宗教と比較しながらも、イエス・キリストの教えと生涯から離れることはありませんでした。彼の愛、哀れみ、自己犠牲、内なる平安、魂の治癒、慈悲、容赦、意志、恐れのないことについての教えは崇高です」

 最後の一文は、無宗教のものからすればぎょっとする表現だが、彼が今も宗教を信じていることの何よりの証だろう。ただやはりアメリカ育ちということで、キリスト教的文化が身近にあるということは、その後の彼の人生の選択を左右したと言える。冒頭に挙げた「クリスチャン・ハードコア」などは、そのバンドの歌詞の中で「神よお助けを」のような文言が入っているとそこにカテゴライズされるようだが、特に「移民国家」のアメリカなどでは、民族や育った地域など、その人それぞれの環境によりキリスト教が浸透する度合いはまったく違い、このマーラーのように、祖父母の影響で心のどこかにキリスト教を信仰する何かが燻っていたのかもしれない。聞けばアメリカの高校生がキリスト教に「オルグ」される手段の一つに、「ヤングライフ」のようなキリスト教伝導団体があり、例えばクラスの同級生が「今度ピザでも食べながらお話ししようよ」みたいに気軽に話しかけてきて、(そこに悪意があるかないかは別にして)友達になり、どんどんと関係を深めるうちにキリスト教を信じ始めるということが起きるそうである。それくらい実体を伴う宗教に触れる機会が多いということだ。またアメリカでは、先に述べたDEAD KENNEDYSの批判した「Moral Majority」のように、共和党の支持基盤にキリスト教右派があり、そういった世俗にまみれた「偽のキリスト教」とは一線を画したいという思いもマーラーにはあったのだろう。より「ピュア」な形態のキリスト教である正教会に魅せられたというのも、安易なものではなく、自分の信仰の先に何があるのかを考えていれば、あくまで「真面目」な選択と言えよう。
 ともあれ、修道院生活を始めることで、SLEEP時代の鬱状態から脱することができたジャスティン・マーラー。日本で言えば、頭を丸めて出家し、寺に入るということになるが、バンドをやめて、正教会の修道院で送った実際の生活とはどのようなものだったのだろうか。

「修道院での生活はとても大変でした。それは完全な拒絶、雑用、何時間もの祈祷と瞑想の生活です。この生活の中で、修道士の心の破壊された部分はさらけ出されます。ギリシャの哲学者が主張したように、自分自身を知ることが哲学の始まりです。自己認識は徳の実践につながり、それは心の平安につながります。
私はすぐに修道院の生活に引き込まれました。違いはとても明確です。SLEEPをやっている間は、自分のことをハードコア・パンクだと思っていました。ただ修道院の生活は、現存する最もパンクな生活の方法だと気付きました。その二つには、たくさんの類似点がありました。ただ明確な違いのひとつとして、パンクは反宗教や無神論と広く関係しています。一方修道院の生活は、この世界の腐敗を否定し、流行を排することです。また、修道院での生活は、コミュニティで営む最もピュアなアナキズムの形態だとわかりました。もちろん階層はありますが、修道院の生活(集団生活)は、従来の政治の外にあることを目的としたコミュニティなのです。
パンクと宗教は対極にあるかもしれない。ただ、パンクは色々なものになれる。反逆、体制の否定、現状への反対など、すべて世界を変えたり、よりよくしようとする意図があります。これは色んな形で、宗教や哲学の芯にも通ずることです。神や精神的な実践をこの式に取り入れたら、人生をより明るく、変化のあるものにするという目的が出てきます。真のパンクスというのは修道士なのかもしれません」

 無神論であるパンクは、やはり宗教の正反対にあるとマーラーも認識しているが、ただ「自分自身を知ること」や、「世界を変えたり、よりよくしよう」という意図は、ハードコア・パンクにおいても非常によく扱われるテーマであり、そこは(建前上は)宗教も共通している。「克己」を訴え、自分自身を見つめ直すことを通して、社会の問題にアプローチしていくというのが、ハードコア・パンクバンドが「外」に向けて取る方法論の一つであることは間違いないだろう。
 また他に類似する点として、自分を律し、ソリッドな音楽を演奏するハードコア・パンクも、苦行に耐える修道僧も、どちらも多分にストイックに見えるのと、あとは「こんな世の中クソくらえ!」ではないが、どちらも現世とは別の世界を創造し、生きようとする姿勢が挙げられるのではないだろうか。資本主義やグローバリズムに反対するパンクスが、ここではないどこかを目指して「Another world is possible(別の世界は可能だ)」というスローガンを掲げるのを見たことがある人も多いと思うが、マーラーの修道院生活においては、完全に世の中と隔絶しているという点で厭世が強すぎる感はあるものの、自らのコミュニティの中で生きていく点では「Another world」と通底する部分がある。「階層」の存在する「最もピュアなアナキズムの形態」というのは、語義矛盾が生じていることは断っておかないといけないが、メインストリームとなることを自ら拒否するハードコア・パンクと、俗世を厭う修道院生活とのオーバーラップはここでも感じられるだろう。

 ちなみに先述のようにマーラーは現在、QUICK AND THE DEADというバンドをやっているが、本人曰く「パンクとゴスペルを足したような音楽性」とのこと。興味のある方はhttp://www.hymnsfortheapocalypse.com/で音源が聞ける。悪く言えば、どこにでもありそうな軽快なポップパンクで、彼のバンド遍歴からすると、なぜ今これをやっているんだと疑問にも思えてくる。キリスト教の有名な聖歌の一つの「Will the Circle Be Unbroken?」のパンクバージョンなんていうのもやっていたりする。もうすぐ「Hymns of the Apocalypse」というタイトルのアルバムが出るとのことで、その音源の売り上げは、シリアにあるマーラーの教会の姉妹教会が内戦の影響で壊滅の危機にあり、その支援に100%充てられるそうだ。
 さて、そんなマーラーは、自身の音楽と宗教の関係については以下のように語っている。

「アート、創造的なプロセスは、私の考えでは、神が人間を創造したように、神のイメージそのものだと思います。神は究極の創造主であり、宇宙を創造しました。私たちの創造というのは、神の創造的精神に参加するということです。プラトンが言ったように、音楽は人の精神的生活、つまり魂に直接関わる理想であるということです」

 最後の一文だけを取れば、先ほど書いたようなハードコア・パンクの「克己」のことだと読めるであろう。前半部分は、ここまでこればマーラーが「神」ということばを使いながらどんなことを言うのか、想像もつくのではないだろうか。

ジャスティン・マーラーのユニークさ

 ここまでジャスティン・マーラーのSLEEP時代から東方正教会の修道院での生活を見てきたわけだが、インタビューして私が一番強く感じたのは、隠遁修行僧のようなマーラーの場合は特殊なのかもしれないが、「神」という概念を除けば、彼も言及したように、それはパンクの生活とほとんど変わらないのではないかということだ。ハードコア・パンクのシーンにいる間に鬱になり、出会った修道女に助けられ、そこから自分自身を見つけていったという流れは、八方塞がりの現実生活がパンクによって救われることと似ている。ほかっておいてはいい方向へ進んでいかない精神状態のときに、「神様仏様」ではないが、何かすがるもの、それを「救い」と言ってしまっても語弊はないと思うが、基にできるものがあるとやはり復調に差が出る。ジャスティン・マーラーの場合はそれが信仰であり、私も含めて、このEL ZINEを買って読んでいるような人には、音源、ライブ、バンド活動など、ハードコア・パンク自体が生活の一つの救いになっているのではないだろうか。
 EL ZINE第18号でインタビューした、セルビアのヤニスと前に喋っていたときにこの話になったのだが、宗教というのは、個人の思想であればそれは良い「ものの見方」にもなりうるが、集団の思想になった場合には必ず問題の原因になり、例えば先述のように政治に利用されたり戦争の元になるのである。これは逆にハードコア・パンクにもあてはまることで、集団化し固定化してしまうと、せっかくのものがつまらなく思えることもある。

 また私がジャスティン・マーラーに好感を抱いた別の理由は、信仰の押し付けがまったくないことである。先に述べた「ヤングライフ」や、日本でも突然の訪問を受けたことがある人も多いように、キリスト教は勧誘の宗教でもあるが、彼にとって宗教を信じるということはどこまでも個人的な問題であり、それを選択するかどうかはその人次第で、他人の自由は侵害しないという大前提があるのだろう。私事だが、その昔某レコード屋で働いていたときに一緒に働いていた(知る人ぞ知る)アメリカ人が、実はキリスト教原理主義に近いような人で、仕事中にたびたび、「神様を信じないと地獄行きだよ」と真顔で迫られたのとは大違いである。
 マーラーがすべて書いていたTHE SABIANSの歌詞を実際に読んでみると、目立って宗教的な想起をさせるものはあまりなく、個人的な体験や苦悩、また主語「We」を使って、人間存在の運命を書いている曲が多い(運命論は宗教的とも言えるが)。THE SABIANSの1stアルバム『Beauty for Ashes』のインナースリーブには、「Corporeal(形而下)」、「Incorporeal(形而上)」の説明と共に、人間がいかに形而下ばかりを気にして精神や意志、魂を見捨てているかが書かれている。「Beauty for Ashes」とはつまり、人間の外側の美はすべていつか灰になる、という無常にも似た概念を歌っているわけだ。

集団ではなく、あくまで一人の自己として

 さて、今回はジャスティン・マーラーという一人のパンクス/修道士を例に、ハードコア・パンクと宗教について駄文を連ねてみたが、冒頭に挙げた一連のクリシュナ・コアなどと比べると、マーラーはただ苦行に耐える厭世僧のようで、派手さに欠け、インパクトは弱く、ここまで書いておいて何だが、ハードコア・パンクと比較する対象としては特殊すぎたのかもしれない。しかしその派手さというのが実は重要な点で、修道院の生活は「流行を排」するとマーラー自ら言っていることからわかるように、彼の言葉には、うぬぼれや成り上がりの上昇志向のようなものを感じることはない。私の勝手なイメージなのかもしれないが、冒頭に挙げた、例えばストレート・エッジ的なものには、どうしてもイメージ重視、マッチョで「群れる」印象があり、果たしてその信仰は自分自身のためなのか、集団維持のための単なる媒介なのか、と疑問に思うことがある。それは一般的な宗教の「悪い」イメージそのもので、もはや「個」はどこにもないのではないかと。私自身の趣味の問題でもあるが、やはりハードコア・パンクには、群れることよりも、ストイックに自己を探求することを重ね合わせてしまう。そういった意味では、ジャスティン・マーラーのような宗教の生き方も、それが集団化し暴走しない限りにおいて(常にその危険をはらんでいることはもちろん認識した上で)、また個としてそれを律することができるのならば、一つの見本となる生き方なのではないだろうか。
 駄文の締めくくりとしては随分と話が飛ぶが、作家の辺見庸はこんなことを言っている。元は、この「例外のない時代」、「『個』が『個』として生きてあることの目的」のわからないファシズムの時代に、死刑制度に対抗していくには、というような文脈だが、その「個」について考えるにあたり、とても示唆的である。

「われわれはひとりひとり例外になる。孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは深い自由だと私は思わざるをえません。」
『いま語りえぬことのために 死刑と新しいファシズム』 辺見庸(毎日新聞社)

 「個」であるということは、真に自由であるということ。そんなことをジャスティン・マーラーの言葉から私は読み取った。そしてその「個」同士が自由につながっていく先に、この息苦しい時代を生き抜く何かが見えてくるのではないか。そしてその可能性がハードコア・パンクにはあるのではないか。そんな一抹の希望を持って、本稿を終えたい。