(2015/10/31 旧ブログより)
EL ZINE vol.18(2015.7.31発売)に掲載してもらった、セルビアの友人・ヤニスへのインタビュー記事をここにも載せておきます。
余談ですが、セルビアはギリシャからドイツへ向かう移民たちの通り道で、ハンガリーとの国境が封鎖されたりとかなりの数の移民がセルビア国内にもとどまっているそうですが、ヤニスは、「移民の中にもハードコア好きなやつがいるかもしれないから、いたら一緒にバンドをやったらいい」と言っていました。
Janez (ATENTAT NA SLUH)へのインタビュー
――ユーゴスラビア・ハードコア今昔――
2012年にヨーロッパなどを旅行していたときに、 セルビア人のJanez(ヤニス)という、皮肉屋の面白いパンクスと知り合って、ギリシャ~マケドニア~セルビアで一緒に遊んでいた。ベオグラードのカレメグダン公園で毎晩ダラダラと色んなことを話しながら、バルカンのひと夏を過ごしたのはいい思い出だ。
今回ヤニスにメールでインタビューを行い、改めて今のセルビアやユーゴスラビア時代の生活、バンドについて聞いてみた。セルビアの辿った過酷な歴史や、「自主管理社会主義」の成功例と見られることもあったユーゴスラビアをパンクスがどのように生きていたかなど、あまり情報が得られないこの地域の一側面を物憂げに語ってくれた。
■ではまず自己紹介をよろしく。
ヤニスと言います。ATENTAT NA SLUHというセルビアのノイズコアバンドのボーカルで、HC Recidiveという小さなレーベル/ディストロもやってるよ。
■ベオグラードについて簡単に教えてくれる? 90年代のセルビアは戦争がいくつかあってかなり大変な時代だったと思うけど、ヤニスはどんな生活を送ってた?
ベオグラードはセルビアの首都で、約3万人が住んでいるよ。ベオグラードはサヴァ川とドナウ川という2つの大きな川が合流する地点にあるんだよ。ここには金持ちや汚い権力者もいれば、その裏側には貧乏人や虐げられた人たちもいるよ。いい生活をと仕事を求めて来る人も多いから、人で溢れかえってるね。ベオグラードはいつも西と東の交差点だったから、旅行者も多いし、移民も多いし、来てはまたどこかに行っちゃう人もいるよ。ここに住むのは楽じゃないよ。仕事はほとんど見つからないし、月曜から土曜まで毎日働いても生活するのに十分な収入が得られない人だってたくさんいる。よくあることだけど、政治家が権力を持ってて、そういう人たちを足蹴にしてるわけだよ。 90年代は血に塗れてたね。戦争、インフレ、警察からの抑圧・・・、とにかくめちゃくちゃな状態だったよ。俺は10代だったけど、毎日道端で酒飲んでは吐いてただけだよ。
■コソボ紛争時に、1999年にNATO(北大西洋条約機構・アメリカ合衆国を中心とした、西ヨーロッパ諸国との軍事同盟)がユーゴスラビア連邦共和国を空爆した時は、ヤニスはどこにいた?
1999年の空爆の時は、ロズニツァというセルビア西部の小さな町にいたよ。空爆は72日間続いたんだ、毎日止むことのない警報と空襲を想像してみてよ。人々は地下や核シェルターに逃げ込んでたよ。NATOはよく橋を爆破していたから、シャツにターゲットマーク(的のマーク)を貼ったりプリントしたりして橋の上に立って、爆撃されるのを待ってた人もいたね。NATOはセルビアの主要都市のほとんどに爆弾を落としていったよ、橋、テレビ局、アンテナなんかにね。一般市民や子供たちももちろん犠牲になったし、NATOの空爆による正確な死者の数ってのは今もわかってないよ。NATOは無数の死体と、劣化ウランを残していったのさ。NATOの作戦は「慈悲深き天使」と言って、その行動を正当化するために、西側メディアに「悪玉セルビア」のイメージを植え付けたんだよ。
■西側メディアにベッタリの日本でも「セルビア=悪」という視点の報道ばかりだったのを覚えてるよ。さっき少し話が出たけど、ユーゴスラビア時代の生活やバンド、バンドを取り巻いた状況について教えてくれる?
旧ユーゴは両極端だったと思うね。一方でいい生活水準があったけど、他方ではたった1つの政党による全体主義的なレジームがあったんだよ。「いいハードコア」ってのは、普通は、若者がその自由を縛る鎖に対して声を上げるような、抑圧された国から出てくるもんだけど、ユーゴスラビアは世界的に見ても豊かなパンク、ハードコアのシーンがあったんだ。怒りや憂鬱、皮肉に彩られた、ユニークでダークな音を出すバンドがたくさんいたし、「鉄のカーテン」が作り出す当時の空気感というのが感じられた。80年代のフィンランドのハードコアに憂鬱さやヒステリーを感じることができたり、当時の南米のバンドに途轍もなくロウな怒りや暴力性を感じられるのと一緒だよ。
当時はバンドのメンバーってのはよく逮捕されてたみたいだね。ジンやポスター、レコード、バッジなどの私物は警察に押収されたり、簡単に疑いをかけられるように、そのサブカルチャー全体を「ナチ・ムーブメント」呼ばわりしてたっていう話もあったみたい。ベオグラードの警察署には「Punk」ってラベルのついたファイルがあって、そこには地元のあらゆるパンクに関わることが書かれていたらしいよ。
その警察に私物が押収された話の一例がここにあるよ。この書類(上記押収令状の写真)について説明するよ。
1980年10月20日、警察はGvido(後にARHIVA、NECROPHILIAや、その後にはCRISTやBRAINSTORMのボーカルを務めた人で、初期のベオグラードのパンクシーンでジンをやってた主な人たちのうちの一人)を呼び止めて、彼のパンクに関わる14の私物を押収したんだ。 この書類はベオグラードのスタリ・グラードという地域のDragiša Blanušaという警官によってサインされている。こいつは後にベオグラード中央刑務所のトップになった男だよ。 この書類に書かれている押収物というのは、パンクのバッジ41個、英語のパンク/ロック雑誌何冊か、Gvidoが作ってた「Bez Naslova」というジン3部、パンクバンドの歌詞が書いてある紙16枚、ポスター何枚か、他のパンクスからの手紙何部か、あとTHE CRASHのTシャツとかだね。 もちろん警察は押収した物をGvidoに返却しなかったし、それどころか彼に脅迫みたいなことをしたらしい。刑務所には入れられずに済んだみたいだけど。 あとその時には警察は他に30人のパンクスに事情聴取を行ったらしいよ。そのパンクスの多くは後に、グラフィティとかライブのポスターを壁に貼ったとかいう軽犯罪で告訴されたんだ。
■当時はどうやって情報交換してたか知ってる?
電話やら、道端で会ったときに直接話したり、ベオグラードだとパンクスはSKC(学生文化会館)の裏でよくダベってたらしいよ。毎日そこに集まっていたから、情報は自然と回っていったんだろうね。
■パンクというだけで警察に捕まった?
例えば、スロベニアのあるパンクスのバッジに鉤十字が載ってて(シド・ビシャスみたいなやつ)、警察はパンクとナチとの関係を疑ったりしたというのはあったみたい。当時のパンクっていうのは反共産主義で、チトー主義の共産主義下に生きていたから、パンクというのは支配システムに対する直接的な抵抗だったんだよね。 当時はチトーに対して何か文句を言うのは許されなかった。もし何か言ったものなら、Goli Otok(アドリア海に浮かぶ島で、政治犯が連れていかれた収容所)に行き着くだけだったんだ。政治的に「不要」な考えを持つ人々というのは、そこに連れてかれて強制労働させられていたんだ。ちなみにユーゴスラビアは第二次世界大戦ではナチス・ドイツに対して戦ってて、クロアチアにはナチの強制収容所もあったんだ。ヤセノヴァツという、無数のセルビア人が亡くなったところとかね。 まあチトーは、大衆をどうやって操作するかということには間違いなく長けてたんだけど、実はフリーメイソンで、カバラなんかにも精通してたとか、チトーは2人いた、なんて話もあるみたいなんだけどね。まあこれはまた別の機会に・・・。 ユーゴスラビアというのはすべてが人工的なプロジェクトで、その歴史には幾重にも重なる層があるんだよ。
■当時のユーゴスラビアにはどんなバンドがいた?
当時のセルビアには、あまり有名じゃないし、レコーディングすることすらできなかったバンドもいるけど、いいバンドがたくさんいたんだ。NECROPHILIA、DISTRESSやSOLUNSKI FRONTなんかがベオグラードで最初にハードコアをやったバンドだけど、最近「Buka i urlik」っていう当時のテープのコンピレーションがLPでようやく再発されたよ。 当時のバンドの名前を挙げていくと、ARHIVA / ARHIVSKA ZABAVA、CIVILI、 DISINFECTや、何年か後にTHRASFOBIA、 NEVER AGAIN(この2バンドは後にTHRASHAGAINを結成)、TUTTO COLORI、ORTHODOX CHRISTIANS、CODEX OF DEATH、KZV、ŽENMIN ŽIBAO、CRISTなんかはすべてベオグラードのバンドだね。ノビサドには2 MINUTA MRZNJE、FEAR OF DOGがいたし、北部のスボティツァにPROCES、GIUSEPPE CARABINO、NADE IZ INKUBATORAというバンドがいた。セルビア中央部のクラグイェヴァツにはKBO!などがいたよ。スロベニアだとSTRES DRŽAVNEGA APARATA、U.B.R. (UPORNIKI BREZ RAZLOGA)、EPIDEMIJA、TOŽIBABE、GUZ (GRDI, UMAZANI, ZLI)、HAVE A NICE DAY、POLSKA MALCA、ODPADKI CIVILIZACIJE、S.O.R. (SISTEM ORGANIZIRANE REPRESIJE)、QUOD MASSACRE、MASAKER、DEPRESIJAなんかがいたね。クロアチアにはPATARENI、MOTUS、LOŠE PONAŠANJE、EUFORIJA、GOLA JAJA、Z.R.M. (ZONA RANE MASTURBACIJE)、BLITZKRIEG, GENERALIなどがいたね。
俺はこういった昔のバンドの音源をレコードで再発したいんだけど、今の給料ではレコードを出すなんてできるわけもなくて……。DISTRESSの“Izdaja Ljudskih Prava・30th Anniversary Edition”は少しお金を出したり絵を書いたりで関わったんだけどね。今まで聞いたこともないライブ音源が見つかって、それをオリジナルの7インチに追加したんだ。
■では現在のセルビアのハードコアパンクシーンについて教えてくれる? 何かおすすめのバンドはいる?
今のセルビアのシーンはデカくはないね。でもいいバンドはいくつかいるよ。大体のバンドはワナビーで、テレビに出て商業的に成功したいのが多いけど、ほんとそういうのはクソだね。 ATENTAT NA SLUHはセルビアで唯一無二のノイズコアバンドだよ。デモやリハーサルテープをいくつか出して、コンピにいくつか参加して、EPが1枚出てるよ。KALOはノビサドのバンドで、80年代の旧ユーゴスラビア時代のバンド――最高の時代だね――、を彷彿させるようなサウンドだよ。何個かデモ音源があって、1枚のスタジオアルバムと、セルビアの北西の町・シドのATOMSKI RATとのスプリットが出てるよ。ATOMSKI RATはテープとCD-Rが何枚か出てて、80年代のフィンランドみたいなうるさくてノイジーなバンドだよ。メンバーの一人がMUTABOと掛け持ちで、そのバンドは80年代後半のUKみたいなダークなメタル/パンクのクロスオーバーをやってるよ。彼らはインドネシアのバンドともうすぐスプリットの12インチを出すよ。MUTABOには DAŽDのメンバーもいるよ。 DAŽDはここ10年くらいものすごく活動的にやってるステンチコアバンドだね。 DAŽDは7インチが何枚かと、LP1枚、あと未発表のLPがあるよ。INTOXはクラグイェヴァツの若手D-Beatバンドだね。80年代前半のフィンランドのバンドや旧ユーゴのバンドに影響を受けているよ。テープが1本と、あとリハーサル音源がいくつかあるよ。DISHUMANITYもクラグイェヴァツのバンドで、ダークなD-Beatサウンドだよ。CD-Rとテープがいくつか出てる。EMETICAもまた別のクラグイェヴァツのバンドで、メタリックなグラインドコアをやってるよ。今アルバムを録音してるみたい。AUTOKASTRACIJAやULICNI BATINAŠIは速くてノイジーなハードコアで、デモやリハーサル音源が出てる。
■他の旧ユーゴのパンクスとの関係はどう? 交流はある? バンドについても教えて。
旧ユーゴのパンクス同士は仲いいよ。同じ言語を話すし、ライブもよく一緒にやったりしてるよ。スロベニアにEXTREME SMOKE 57ってバンドがいて、もうすぐセルビアでライブをやるんだよ。彼らはスロベニアで最初のグラインドコアバンドで、近々新しいレコードとテープが出るみたい。スロベニアで今一番活動してるバンドじゃないかな。クロアチアにはNONSENSEというクラシックなバンドがいて、あとHELLBACKっていうダークでメタリックなクラスト/ハードコアバンドだよ。どっちのバンドもデス/グラインドバンドのDISLIKEとメンバーがかぶってるね。あとはPATARENIだね。マケドニアのULTIMATUMはまだ音源はないけど、KILSLUGとかFLIPPERみたいなドゥーミーなパンクのバンドだよ。
■最後に、今後の展望とかはある?
目下ATENTAT NA SLUHでリハーサルできる場所を探してるよ。レコーディングがしたいね。未発表の曲や新曲もあるし、リリースの話もいくつかもらってるけど、この地での生活は日に日にめちゃくちゃになっていってるからどうなるかわかんないね。 レーベルも同じだね。面白いユーゴスラビア時代のバンドを、レコードか、少なくともテープでリリースしたいんだけどね。
(本インタビューは、EL ZINE vol.18に掲載された記事に修正を加えたものです。)