Dystopia/Weed of Wisdom (“Human=Garbage”, Life Is Abuse, Misanthropic Records他, 1994年)
鈴木智士
90年代はじめからクラストとスラッジコアを横断し、そこにグラフィティの要素も入ったことで、後続の同系バンドのみならず多方面に大きな影響を与えたカリフォルニアのDystopia は、現代社会の数々の闇―果てしのない資本主義社会、富の独占、自然破壊、貧困、犯罪、ドラッグ、レイシズム etc.―について歌ったが、それは「ちゃんとした」パンクバンドであればよく扱うような、ありふれたテーマでもある。彼らが特異だった点は、それらによるストレスの蓄積が人間の精神を蝕み、鬱病のような状態を招き、結果的には誰もが「死」という結末を意識せざるをえないことを、直接的に、時に詩的に、ヒステリックでニヒリスティックに表現していたことだろう。
94 年の12”EPを元にした編集盤に入ったこの曲(初出は93年リリースのEmbitteredとのSplit 12”)でも、同様にそういった「闇」―冒頭で歌われる「レイプ、消費、疲弊、陵辱」といった「日常」、化石燃料を使い果たすデュポン、エクソンなどの超大企業(ある意味とても90年代的な問題意識でもある)―を指摘、というか嘆きに近いような歌詞で歌っているが、その一節に出てくるのが、「ジム・クロウ法」という、奴隷制廃止後の19世紀後半から存在した、黒人やその他の有色人種を隔離することを目的としたアメリカ南部の州法だ。ただこれは法というよりも、黒人・有色人種差別を正当化する体系そのものを指すようで、「白人専用」「有色人種専用」と分けられたトイレやレストランなどの標識を写真で見たことがある人もいるかもしれないが(映画『ミシシッピー・バーニング』の冒頭の水飲み場もそう)、それらは正にそのジム・クロウ法によって正当化された「区別」だった。そんな状況が長く続く中で起きた出来事のひとつに、公民権運動の嚆矢のひとつとなった、ローザ・パークスによる1955年のアラバマ州の「モンゴメリー・バス・ボイコット」がある。ジム・クロウ法の下で、あらゆる場所で白人と黒人は隔離されており、それはバスの中でもそうだった。バスの前方が白人の席、後方が黒人の席と明確に分けられていたが、車内が混んできたら黒人の席を白人用にして黒人は立たせるという状態。しかもバスをより多く利用するのは自家用車を買う余裕のない黒人だ。それに従わずに逮捕されたのがローザ・パークスで、その支援に動いたのが地元の牧師たちやキング牧師だ。その後バス・ボイコットは組織的な運動となって広がり、バス会社に経済的な打撃を与え、最終的にバスの人種隔離は違憲とする判決を勝ち取る。キング牧師の夫人、コレッタ・スコット・キングの印象的な言葉を引く。
「ローザ・パークスさんが、1955年12月のあの日の午後、アラバマ州モンゴメリーであのバスに乗ったとき、彼女は革命に火をともしました。やがてこの革命は、アメリカに変革をもたらしました。マーチン・ルーサー・キングが言っていたように、あの歴史的な日に彼女が人種差別に迎合するのを拒んだのは、自分自身の尊厳の念と自尊心が原動力になっていたのです。そして、過ぎ去った日々の侮辱の積み重ねと、生まれ来る世代が待望する大きな目標がその背景にありました。」
『黒人の誇り・人間の誇り ローザ・パークス自伝』(高橋朋子訳、サイマル出版会)
Dystopia がここで「偏見、人種隔離政策のジム・クロウ法」と歌うこの悪法の通称となった「ジム・クロウ」という名前は、白人が顔を黒塗りにして嘲りを込めて歌や踊りを披露する19世紀半ばのミンストレル・ショーのキャラクターから取られたものだった。それをDystopiaは曲のタイトルにあるようにマリファナの持つ力と絡めて歌う(この点がこのバンドの持つ非常に独特なセンスだ)。曲の最後に「嘘に裏打ちされた作り話や言い伝えは無視しなければならない」と歌われるのは、その前に言及があるように、マリファナを合法化すると都合の悪い連中がいるのと、黒人から足枷を外すと都合の悪い連中がいる、という2 つの事実に共通
した根源を表そうとしたのだろう。
近年アメリカの多くの州で医療用大麻が合法になってきているが(州によっては嗜好用も合法、もしくは非犯罪化されている)、ただそれも合法化されることで資本にぶん捕られてしまう。少なくとも彼らが歌う「知恵のマリファナ」は、そんなお上に奪われたものを指さないはずだ。国家や行政がやることは、それが一見「いいこと」に見えようが、常に疑ってかかる必要がある。
「ハードコア・パンクの歌詞を読む ―Debacle Path 別冊1」より