“March for Our Lives” 私感

(2018/4 旧ブログより)

3月24日に、全米で銃規制の強化を訴える“March for Our Lives”と称するデモがあった。これは2月にフロリダ州のパークランドの高校で起きた銃乱射事件(17人が死亡)に端を発し、同校の高校生たちが主導で始めたものだ。スローガンはDischargeよろしく“#NeverAgain”。それに共鳴して、アメリカ国内だけでなく、国外主要都市でも抗議行動があったらしい(日本はあったのかな)。
ちょうどその頃、アジア研究者の学会がワシントンDCで行われていて、その端の端にかろうじて引っかかっている相方akがDCに行くのがちょうど24日だったので、デモもついでに見に行こうということになり、私も早朝からついて行った。ちなみに発表者には、日本のパンクスにもおなじみ625マックスもいて、ロシア革命の日本への影響、みたいなことを発表していた。まあ日本にもよく来てるけど、元気そうでした。

昼頃から地下鉄に乗ってDCのダウンタウンへ向かった。地下鉄がラッシュ時の東京みたいになってて既にすごい人。DCまで来て満員電車を体験するとは思いもしなかった。みな様々なプラカードを持っている。駅を上がると、今日のデモのためにわざわざ刷ったと思われるTシャツを売っている人がそこら中にいる。アメリカの首都であるDCには数十万人集まると言われていたから、それを見込んで一儲けしようというわけだろうか。1人の老女が100枚はあろうかというTシャツの山を前にして座っていたが、あんなに刷って売れ残らんのかな、というアンダーグラウンド・バンド的視点で心配する…。
ダウンタウンに着いても、デモというかこの集会はあまりに人が多すぎて、車の通行を規制したストリートはどこも人だらけ。おびただしい数の簡易トイレも用意されたとてもでかい規模の集会だ。我々はスピーチ会場までは到底たどり着けるわけもなく、種々のプラカードを見ながらただの観察者と化していただけだった。参加者は50万人とも80万人とも言われていたようだ。ちなみにこの件についての日本の報道は、「セレブも参加」「アリアナ・グランデが歌った」「ニューヨークではポール・マッカートニーが参加」みたいなのが目立ったが、さすが日本のメディア!と言うしかないな…。

さて、結論から言ってしまえば、今日のデモは「リベラル」主導の「平和的」なものなので、参加者も全米から高校生が集まったりと年齢層はかなり若く、2017年1月のトランプの大統領就任式のような、ブラック・ブロックがリムジンや大銀行をぶち壊したり、リチャード・スペンサーのような白人至上主義者をぶん殴る、みたいなものはもちろん見られなかった。ブラック・ブロックなんかおそらく興味も持たない類のやつだ。
ただ、これだけでかい集会でも警察の姿はほとんど見られず、いても所々にパトカーが止まっていたり、道案内に答えている警官がいるだけ。あとは完全に放任。デモをやるのに警察がそれを制する、というのは「ありえない」ことなのだ。ただまあブラック・ブロックみたいなのが登場したら大急ぎで飛んでいく態勢は整ってるんだろうが…。
これだけ多数の人々が参加していることは単純にすごいことだとは思う。自分の意志を示すのに躊躇しない。引率らしき人もいたからクラスみんなで来たのかもしれないが、小学生、中学生らしき若い10代の姿も多い。男の子も女の子もいる(大人は女性が多かった気がするが、ヒラリー支持者のような「リベラル」だからなのか、銃規制だからなのか…)。ネットでは銃規制反対派が立ち上がった人たちのことを「フェイクニュース」呼ばわりしたり、ハラスメントにさらされたりもしたようだが、それでもこうやって街頭に出て自分の考えを表現するのが当たり前なのだ。またこっちのプラカードは「デモで自己表現」のごとく、手作りのものが多くて、それを見てるのは面白かった。今回はやはりNRA(全米ライフル教会)を批判するものや、日本でもその「沈黙スピーチ」がメディアに取り上げられていたようだが、先の銃乱射事件を生き伸びたエマ・ゴンザレスさんを支持するもの、子どもたちを守れ、というものがほとんど(このあたりのサイトで、そういったサインが色々見える)だったが、その中で社会主義者や労組が下記のようなチラシを配っていたりもした(日本の「国会前」ならこの人達は排除されるのかな)。


ふざけたようなサインはなく、それくらい真剣なんだなというのはわかった。“Am I Next?”(次は私が撃たれる番?)というサインもあったが、それを見て、90年代にNATOがセルビアを空爆していたときに、「ターゲットはここだよ」と射的マークのTシャツを着てNATOを挑発したセルビア人たちを思い出したりもした。もっともあれは相手がもっと強大だったが。

ただ、akとも話していたのだが、気になったのは、“Black Lives Matter”運動のような、ここ数年の警察官による黒人銃殺に対する運動に関するプラカードが少なかったこと。聞いたのは、銃規制運動が「シングルイシュー化」することで、警官による黒人、有色人種への暴力が埋もれてしまっているということだ。まあ「シングルイシュー」や「リベラル」にありがちなことかもしれないが。たとえば児童生徒を守るために、警官を学校に配置する。警官が銃を持つのはとがめられない。何かあれば(何もなくてもか)その警官が黒人を疑い、銃を向ける、ということも起きかねないのだ。

デモのメインストリートとなっていたペンシルバニア・アヴェニューの、FBI本部のある角のところに、デモに反対する「カウンター」、すなわち銃規制に反対する集団もいた(もちろん星条旗付き)。NRAは「銃が増えれば国はより安全になる」という考えのもとで動いており、あらゆる銃の規制に反対し、共和党の議員に莫大な献金をしているのは報道で取り上げられる通り。これらの「カウンター」の人々の持つサインも、「銃を持った方が長生きできる」とか「アメリカの自由は『敵』じゃない」(銃を持つことができる権利自体が、アメリカの「自由」を体現している、というわけだ)など、あからさまに攻撃的なメッセージではないが、銃を持つ自由も認めろ、というメッセージを放っていた。その集団の回りには警官が何人かいたが、その集団に寄っていって議論をしている銃規制派の人たちもいた。


銃規制反対派とそれを囲む銃規制派

いくら学校での銃乱射による死者数が、アメリカでの銃による犠牲者全体の数パーセントだとしても、無関係の子どもたちが学校という場所でいつ殺されるか怯えながら生活を送るのは何とも辛い。でもそこはアメリカ社会。「だったら先生が銃で武装すればいい」とトランプが言ったり、先に書いたように警官を配備すればいい、という、あくまで銃の存在を根底に置いた、力でねじ伏せるような考えも出てくる。銃規制派と反対派の溝は、まるでそれぞれが別の世界にいるようで、埋まるようにはまったく思えない。一つでかいデモを見たからといって何かがわかるわけでもないが、銃社会アメリカがどうなるか、ひいては今後、銃が社会にとってどのような位置づけになるのかも、気にはなる。別に現実と非現実を混同しているわけではないが、それは現実世界ではない映画やゲームなど表現の領域においてもそう。それらの娯楽で、銃を散々見ているのも確かだ。先にNATOのことも触れたが、アメリカが国防の元に行う「悪」に対する「戦争」も、この銃社会の延長線上にある気もする。先にやっちまえば殺されることはない。備えあれば憂いなしの究極版とでも言うか。そう考えるとアメリカという国は本当に歪んでるな。こんなところに引っ越して住める気はなかなかしない。パンクスでも銃を持っていることを自慢げに語る奴もいたが(某ハボック先生とか)、ああいう人たちは今何を思うんだろうか。