Misery/Filth Of Mankind【続ハードコア・パンクの歌詞を読む―Debacle Path Online】

Misery/Filth Of Mankind
(“S.D.S/Misery” Split LP、MCR Company、1992年)
黒杉研而

 Miseryといえば、NauseaやApocalypse等と同様に北米で80年代後半に始動し、現在も活動するUS Crustのベテランバンドだ。イギリスの古典的なクラストともまた少し違う、重苦しいながらも時にMotörheadやGBH、後期Varukersを彷彿させるキャッチーなリフで攻めるかと思えば、AmebixやAxegrinderに比肩する荘厳さを纏う事もあるその独特のサウンドは、世界中のクラスティーズを虜にしてきた。2010年代にリリースされた2枚のアルバムはそれぞれ趣が異なりながらも、フックの効いた「これぞMisery節」が発揮された名盤だし、一昨年(本稿執筆当時)にはかれらのマスターピースと言える当スプリットがProfane Existenceよりリイシューされた。この曲は初期のかれらを象徴する名曲と言っていいだろう。“Early years”等、いくつかのコンピにも収録されているが、現在はこのリイシューが恐らく一番入手しやすいと思われる。89年の2枚のEP“Blindead” , “Born,Fed… Slaughtered”や1st LP “Production Thru Destruction”等で聴く事ができる、重油をぶち撒けた薄暗い室内で乱戦を繰り広げるが如くの暗鬱七転八倒ステンチコアに比べればややクリアな仕上がりで、上述したキャッチーさも幾分増したような音だが、基本的な方向性は変わっていない。

人類の過ちが赦される事はない
俺たちが踏みしめている大地を当たり前のものだと思ってやがる
嘘や裏切りでしかない金持ち共の対策が 癌で死にかけの地球を更に蝕む
こうして人類の過ちは嘘の内に隠蔽される
イカれた奴らに精神を歪められる事を拒め
食糧危機に人類はどう対応する?
オゾン層が完全に壊れてもこのまま享楽に浸り続けるのか?
破壊される俺たちの地球
俺たちが破壊した地球
(後略)

 一瞥して、これが環境破壊に関してのものである事は明らかだ。「人新世」や「脱炭素」「SDGs」という言葉が近年ますます取りざたされるように、富裕層や社会の主流派でさえもそうした問題は一定認識し、「環境保護」を支持しさえもするが、「彼らのやり方は根本的な解決に繋がらないどころか、むしろ悪化させている。その場凌ぎの嘘八百に取り込まれてはいけない」…。そうした認識が反映されているように思うし、それは決してMiseryに限った話ではなく、80’sから00’sあたりまでのクラスト周辺のハードコアパンクに関して言えば、ある程度共有されていた認識だったように思う。
 具体性はともかくとしても、資本主義や国家の問題と環境/動物倫理を一体的に捉えるような主張は、90年代のクラストやピースパンクと呼ばれるバンド群には頻繁に見られた。90年代は80年代に引き続き、社会運動として、また「テロリズム」を含む現象としてエコロジーや動物解放運動が激化した。Animal Liberation Front(動物解放戦線)やELF(地球解放戦線)、またはEarth First!などの「指導者なき抵抗」は、動物実験施設や工場畜産、地球環境や生態系の破壊を引き起こす研究機関などに対して、時に爆弾や放火などの破壊的手段も辞さない直接行動を展開。ConflictやAnti-system、Iconoclastなどが自らALFを名乗るほどその運動を強く支持していた事などからも伺えるように、既成の左翼運動ともまた違ったそうしたラディカルな直接行動に、当時の少なくないパンク/ハードコア勢が強い共感を寄せていたし、かくいう筆者もそこから影響を受けたひとりだ。

 元は反戦/反核運動の現場においての実践として始まった、野宿者へのヴィーガン食提供支援等を主な活動とする“Food Not Bombs”に現在も多くのパンクスが参加し、支持を表明するように、パンク周辺文化の中には環境倫理や動物倫理に繋がる回路は数多くある。だがそれは、Miseryのいう「ホワイトカラーどもの嘘」のような、単に逃避的なライフスタイリズムとしてのそれを踏襲する事とは違うだろう。資本主義の下での格差や貧困、人種・性差別、そして戦争やファシズムの台頭に執拗に警鐘を鳴らしてきたMiseryや、有機的なパンクコミュニティ総体が支持してきた思想・実践としてのそれは、スーツを着た中流・上流階級や、セレブやヒップスターが地代を釣り上げてマイノリティを街から叩き出す事と一体で喧伝する「おしゃれでエシカルなヴィーガンライフ」とは対極に位置するものであり、「それはそれ、これはこれ」ではなく、「あれも、これも」問題として捉えるためのものだ。「ヒップスターや金持ちが言う事であろうと正しいものは正しいし、環境問題や動物倫理は全人類的課題ではないか」、それは一面においてそうだろう。だが、Extreme Noise TerrorやElectro Hippiesが何故軍需産業/イスラエル支援企業でもあるマクドナルドを槍玉に挙げたのか等、既存のクラシックなパンク・ミームとその政治的背景を思い起こし、その理由に立ち返ってみれば「それはそれ」が孕む危険性というのもおのずと見えてくるのではないだろうか。少なくともかつての、ある時期までのハードコアパンクにとって、それらは「いずれも問題」だったのではないかと筆者は思うのだ。