Debacle Path vol.1の小特集、「日本のポリティカル/アナキスト・ハードコア・パンクを回顧する」に掲載した松原弘一良君のインタビューをここにも再掲します。誌面には載せきれなかった写真や、ライブの動画入り!
パンクっていうのは自主独立/松原弘一良(Argue Damnation, F.F.T. Label, Mobsproof)インタビュー
■ Filaria からArgue Damnationへ
――まず松原君のバンド遍歴から伺っていきたいですが、最初にやっていたバンドは?
松原 ちゃんとしたバンドは、地元の友達と始めたFilariaっていうジャパコアのバンドが最初。デモテープ1, 2本しか出してないようなバンドで、地元の神戸と大阪をメインにライブをしていて。1回だけ東京でライブした程度。2年と少しくらいやってたかな。
――それは何年頃の話?
松原 結成が1990年で、ボーカルが完璧主義者だったから1年くらいスタジオに入って、ライブ活動は91年から93年。ボーカルはその後東京出てきて、Genkotsuっていうジャパコアのバンドをやってたみたい。
――Filariaの音は完全なジャパコアでした?
松原 そう。あとは、横浜銀蠅やアナーキーのカバーをしてたから、ほんまに神戸の片田舎のパンクスが、ハードコアをやろうとしてたみたいな感じ(笑)。当時はちょうど空白の時期で、神戸にハードコアのバンドがいなかった時期。同時期に活動していたバンドはJimmy Gunsとか、Club The Star系のバンドが多かったかな。神戸にはそういうお店もあったし。
――Argue Damnationを始めたのはその後?
松原 そう。94年に結成した。
――その頃には、いわゆるクラストのバンドは、もうまわりで活動していたんですよね?
松原 90年代入った頃にはもう活動してたね。『Final Noise Attack』(Gloomが梅田Guildで主催していたシリーズ・ギグ)もやってたし。
――今回のこの小特集では、ハードコア・パンクと、いわゆる政治性の関連にフォーカスしようとしてインタビューをしてるんですが、バンドをやり始めて、そういった政治的なことに目覚めた、気にしだしたのは、何がきっかけでした?
松原 そういう風には考えてなくて、ハードコア・パンク=政治的なもの、社会に対するものだと最初から考えてた。大前提としてそれがあるもんやと思ってたから、それ以外はハードコア・パンクだとは思ってなかった。
――最初からそういう風に思ってたというのは、例えばどんなバンドを聞いて?
松原 それこそClashとか、アナーキーとか、Crassとか聞いても、そういうことを歌ってるやん? だから最初からそういうものだと思ってた。
――アナーキーも?
松原 そう。天皇制批判から自分たちの身の回りの不平不満まで分かりやすく歌っていて、めちゃくちゃ影響を受けたよ。
――じゃあ最初のFilariaをやってたときから、歌詞ではそういうものを扱っていた?
松原 僕が書いてたのはそうだった。ボーカルはまた別の考えを持ってたから、彼が書いてたのは、もっと、どっちかというとジャパコアに近いようなのやったけど。
――当時からやっぱりクラストとジャパコアとでは、歌詞の内容は折り合わないというか…。
松原 歌詞の人称が違うからね。内に向かうか外に向かうかという点でも違うし。でも、そこはバンド内では折り合いは取れていた。
――Argue Damnationをやり始めたのは、もっと政治的なバンドをやりたいからとか、何かコンセプトがあったからですか?
松原 コンセプトと言えるほどのものはなかったかな。とにかくクラストがこの世の中で一番かっこええものやと思っていたし、考えてることも近いな、って。ファッションも自分たちで徹底的に作り込んで、他とは全く違っていたから。とにかくクラストバンドをしたいっていうプリミティヴな衝動だけだったよ。
――特に影響を受けたのは?
松原 CrassやConflictなどアナーコ・パンク全般と、Extreme Noise Terror やDoomなど海外のバンドはもちろん、国内のバンド含め当時活動していたクラストバンド全般。とにかく、曲、ファッション、思想、すべてがかっこいいと思ったし、その時は、これ以上のものはないと思っていた。レーベル(F.F.T. Label)をやり始めたのも、デモテープを出すんやったら、レーベルも一緒にやってみようかなっていう軽いノリやった。MCR CompanyやD.I.Y. Recordsの活動を見ていて、全部自分たちでコントロールできるのはええなあと思って。あと海外のレーベルと連絡を取って、広がりができるのもええなあと。バンドだけでもよかったんやけど、そういうのが面白そうで、レーベルも一緒に始めたんだよね。
――その頃は、レーベルとしてはどういうバンドと連絡を取ってたんです?
松原 地元神戸のバンドだけのコンピを作って、日本全国のコンピも作りたいなってどんどん欲が出てきて、「コンピレーションを作りたいから、デモテープを送って下さい」って、募集告知を『Doll』に出したのが最初かな。そうしたら、まだLiberação時代のFrigöraから連絡があったり。当時はレーベルもいくつもあって活発やったし、パンクスもバンドも多かったと思う。バンドブームの残り香っていうのがあったのも強いのかな。クラスティーズも増えてきた時期やったと思うし、国内外たくさんのバンドと連絡を取るようになったよ。
――当時の「政治的」というポジションの中身について教えてもらいたいんですが、イギリスなら90年代のはじめはまだサッチャー時代の残滓みたいなのが残っていて、パンクスもそれに反応していたでしょうし、そういうのを音源などで聞いたりして、いざ日本のことを考えると、どんなことを問題としてとらえていたんですか?
松原 その前に、世代的にもいい時期の『宝島』世代だから、10代の頃からいわゆる「政治的」なことには興味を持っていたんだけど。時代的にも雑多な情報が入ってきたし、メディアの内容も今みたいに腑抜けてなかったから。直接行動も重要だと思ったきっかけは、昭和天皇崩御のときに、テーゼのホコ天でのライブに警官が突入して逮捕された記事が『宝島』に載っていて、そこでおかしいなというのがあって。もともと天皇制や警察は嫌いやったし。もちろん政治家もやけど(笑)。
――特に「Xデー」の前後は、反天皇制の動きは一番盛り上がってて、天皇制、ヒロヒトの戦争責任についても歌っていたバンドは多かったんですよね。今や「天皇はリベラル」だとか言うパンクスもいたりで、まあヒロヒトではなくアキヒトだとしても、もう見る影もないですが(笑)。でもまあ当時は反天皇制っていうのは、意識としては大きかったわけですね。
松原 そうだね。
――UKのアナーコ・パンクなどは、土台にアナキズムの思想を取り入れていたわけですが、僕もそういうのに影響を受け出したときには、アナキズムって何だろう、ってことで調べていくと、日本だったら大杉栄とか幸徳秋水、石川三四郎とかがいて、大杉の本を読んだり、そこからクロポトキンなどを知って読んでみたりしたわけですが、まあ内容は簡単なわけではないので理解できたのか、またそれをバンドの活動等に活かせたかはわかりませんが、そういうのって当時読んだりしました?
松原 読んだ。読んだけど、難しい(笑)。だから、最初は入門書みたいなのを読んで。
――「For Beginners」シリーズ(現代書館)とかありましたね。あのシリーズに大杉栄もありましたね。
松原 そうそう、絵が多くて分かりやすい(笑)。あとはミニコミを読んだり。ラッキーだったのは、地元の先輩で、パンクスというわけじゃないけど元々活動家で、CrassやPop Group, 前衛的なバンドやノイズなどを紹介するミニコミを作っていた、全共闘の少し後の世代の人がいて、色々と教えてもらえたこと。公安対策や行動するときの心構えとか、めちゃくちゃ役に立った。
――「救援ノート」みたいな役割ですね。ミニコミとかは、東京なら模索舎、名古屋にはウニタがありますが、大阪にああいうお店はあったんですか?
松原 なかったんじゃないかな。10代の頃はジュンク堂みたいな大きな本屋とか、図書館で調べてた。難しいなあと思いながら(笑)。本多勝一や立花隆はどこでも入手できたからよく読んでたし、当時は『宝島』もリベラルな感じだったし、『噂の真相』もあったり。入り口としてはすごく入りやすかったから、それで下地ができたってのはあるかも。さらに熱心に勉強し始めたのは、Argue(Damnation)を始めてからかな。模索舎へ初めて行った時は良い本がいっぱいで興奮したのを覚えてる(確かOminous Omenのタクくんに連れて行ってもらったのが最初だったはず)。もちろん各個人の生きてきたバックボーンが違うから、UKアナーコ・パンクスみたいにストイックではなかったかもしれないけど、その時々でヤバイと思った時に、行動はしてたと思う。(バンドの)最後の方で言えば、「9・11」後のアフガン空爆や、イラク戦争の反戦デモや集会は盛んに参加して。プラカードを作って、現場で配ったりしてたよ。
――「9・11」以降だとそのへんの行動になりますよね。僕がデモとか行き始めたのが、2003年3月のイラク反戦からなんですが、ワールドピースナウみたいな、いわゆる「市民運動」的なものだけど、それなりに動員もありましたね。ただ90年代のそういう政治運動というのは、パンクスは具体的にどんな行動に参加していたのか、僕もよくわかってない部分があるんですが、大阪ではどんな活動があったか覚えてます?
松原 僕も全てに関わっていたわけじゃないから、個人的な話になってしまうけど、反戦関連の団体が主催する戦争体験者の体験談を聞いたり、反戦集会にはよく通っていたよ。どこかの組織に所属するっていうのはなくて、バンドで歌っていることに関して責任を持たなあかんっていうのはあったから、それに関する活動っていうのは継続していた。あとは反動物実験の署名を集めたり、動物実験していない洗剤を広めるとか。
――アニマルライツに関連して一つ聞きたいんですが、当時のアニマルライツの運動って、欧米的なものをそのまま輸入したというか、とにかく動物最優先で、肉食うな、とか言ってた人が多い印象があるんですが。でも日本の食肉産業って、従事してる人たちにいわゆる被差別部落出身の人や在日朝鮮人の人たちが多く、そういった人たちが差別構造の中で担わされてきたという歴史があるわけで、そのあたりはどう考えていたのかなと。
松原 歌詞に書いたりはなかったけど、そのへんは考えてはいたよ。例えばアイヌについての歌も歌っていたし、食肉もそれぞれの人たちの文化として存在すると考えていた。ただ、これは欧米的な考え方なのかもしないけど、牛一頭を育てるのに、どれだけの穀物が必要で、そのために森林伐採して…、っていうのがあるやん? そういった点は意識してたけど。
――東京では当時そういう認識があったかどうかは聞いたことがなくて、大阪と東京では環境も違うし、現状認識に差があったのかもしれませんね。僕がそういう運動に関わり始めたときは、名古屋で野宿者の支援をしている会で活動をしてたんですが、そういうどこかの団体で何かをする、というのはなかったですか?
松原 グループだとどうしても共感できない部分があるし、集団だとちょっとしんどいなあというのも感じていたし。元々ヘンコで、当時はまだパンクっていう共通項がない人とはうまく付き合いができなかったから(笑)、基本は個人で活動してたって感じかな。随時気になるところにちょっと関わる感じで。今考えたら適当だし、自己満足やね(笑)。
――アニマルライツの話が出たところで、Tribal War Asiaから出た『Animal Rights Comp』LP(1999年)についてです。ちょうど今回インタビューする4人の内の3人が関わってるんですよね。これはTribal War Asia/Power of Ideaの小林さんから声がかかったんですか?
松原 そう。ほとんど一緒にライブをやったりとか、その周辺のバンドばかり。
――その趣旨も、今ならソーシャルメディアですぐ拡散するけど、当時は自分たちで街頭に立って話すとかビラ配るとか、ライブのMCで言うとかくらいしか拡散手段がなかったわけじゃないですか。
松原 そう、だから地味やったと思う。世の中には見えへん、裏方的なことをするわけだから。それに、あまり声を大にしていうのも野暮やと思うしね。
――本来は裏方でいいと思うんですけどね。今はすべて表に出ちゃいますもんね。当時、そういう問題を知らないパンクスなどから反応はありました?
松原 興味を持ってライブの時に質問してくれる人もいたし、違うシーンでも理解してくれた人はいた。毎回ライブで歌詞カードや歌詞に関するフリーペーパーを作って配ったりもしてたなぁ。でも、批判されることは絶対あるわけやし、こっちは自分の信じてることをやってるだけで。まあ、聞き流しとったんやろね。バンドはある程度の鈍感力がないとできないよね(笑)。
――歌詞を読み込んだかどうかって、結構大きいですよね。今はみんなYoutubeとかで聞けちゃうから、海外のバンドの歌詞が読めない、わからないとかもあるし。そのバンドが何の問題提起をしているかとかもわからない。
松原 80年代でもハードコアパンクの日本盤が出ていて、歌詞の対訳も付いていたから読み込んでいたよ。自分で輸入盤の歌詞を辞書片手に訳してたりもしてたけど、難しすぎて途中で頓挫したりしてたから、日本語ですんなりわかる訳詞は非常に助かった(笑)。
――それはたとえCrassみたいないわゆるDIYパンクのバンドでも、日本盤で出た良い点かもしれません(笑)。
■ F.F.T.リリースのコンピレーション
――大阪に、他にArgueみたいなスタンスのバンドはいました?
松原 アナーコ・パンクってこと? バンドのメンバーのうち一人が活動家とかはあったけど、バンド全体としてというのは知る限りなかったと思うよ。少し後から出てきたバンドで、「反新安保」コンピEP(1999年)に参加してくれたAbsentは近かった。Absentは原発問題をメインでやってたバンドで。ボーカルの子が大学で原発問題を研究していて、尋常じゃない知識量で、『Anarcho Icon』(ジン、vol.4まで発行)にもよく原発問題に関する記事を書いてくれていた。Victims of Greedはボーカルの谷やんとはよく一緒に活動をしてたよ。Youth Strike Codeの坂上君も共感する部分が多かった。だからしょっちゅう一緒にやってたし。このコンピに入ってるのは近いスタンスのバンドだと思うよ。
――このコンピの意図というのは?
松原 これは当時政府が成立させようとしていた、日米新安保ガイドライン、周辺事態法などの内容があまりにひどいから、それに反対する目的で作った。国内でもこのことを知らない人もいたし、トレードで海外に流したときには、「どういう意味のベネフィットコンピ?」って聞かれることも多かった。それで説明したら、「そんな酷いことってあるの?」ってアメリカのバンドに言われたこともあった。
――このコンピを出して、何か大きな反応はありました?
松原 『Doll』や『Maximum Rocknroll』にレビューが載った程度。ただ売れ行きは、当時はまだクラスト全盛期というか、すごくよかったよ。一番よかったのは、対外的に云々というよりも、バンド内の意見がまとまったことかな。こうなったらもうやっていくしかない、みたいな。
――似た考えを持った仲間を集めるのには、コンピレーションってのはパンク・ネットワークっぽい、いい手段なのかもしれませんね。
松原 意思表示するのにはすごくいいと思う。このコンピを出す少し前から『Anarcho Icon』も始めて、意識はしていなかったけど相乗効果はあったのかな。
――次は反愛知万博コンピ(1999年)についてです。
松原 ORdERのヨシキ君(現タートル・アイランド)から、「愛知万博は自然を破壊して開催するので問題が多く、そのために反対活動も盛んになっていて、自分も反対している」ということで、一緒にコンピを作ろうということになった。
――この辺の実際の反対運動は、Result時代に当事者だった松井さんにも今回インタビューするので聞いてみます。このコンピが出たときは、まだ万博をやるかやらないかの時期の反対運動だったと思うんですが、その後、当初の計画とは変わったけど開催は決まって、開催の年の1月に、名古屋の白川公園に住んでいた野宿者が、名古屋市主導の行政代執行で完全に排除されちゃったんですよね。「臭いものには蓋」で。その時は反対運動にはパンクスはもうほとんどいなかったんですが、結局反対していたものが押し通されて決まっちゃうと、もう運動はダメだ、ってすぐに萎んじゃって、パンクに限った話ではないですが、これはもうどうしようもないのかなと思ったことがありましたね。
松原 バビロンの力は強いからね。昔そのことをバンドの中で話してたことがあって、Argueのドラムだった海ちゃんが、浅田くん(Battle of Disarm)から「諦めから始めるしかない」って言われたって。それを聞いて、「確かに」って思った。反戦デモで目的を達成することは難しいことはわかりきってるわけ。でも今意見を言わないとそろそろやばいぞ、でも挫けそうだぞってときに、その「諦めから始める」って言葉が頭にあったから、続けられたんかもしれへんねぇ。
――さっきの鈍感力っていう言葉もそうですが、やってて折れそうになったことは?
松原 むちゃくちゃあった(笑)。もうあかん、みたいな。最終的には、もうほんまにダメってなって解散したんやけど……。メンバーが抜けてうまくいかんようになったのと、あと運動を続けるうちにしんどくなったのもあった。
――運動はバンドと違って楽しくなかったり、しんどいときはよくありますよね。バンドもそういう点ありますが。
松原 そうそう。未来が見えんっていうか、バランスが取れんようになるねん。
――バンド内や、対バンとか周りのバンドとのバランスですか?
松原 いや、もっと俗っぽくて、仕事や彼女とか普段の生活と折り合いがつかなくなった(笑)。若すぎたというより、不器用でバカだったから。
――それでArgueは2003年に解散しますが、理由は?
松原 大島君が抜けたんよね。バンドって他人の集まりが奇跡を起こすようなもんで、縁だと思うから。それに活動も行き詰まった感じがしていたし。
bandcamp: https://arguedamnation.bandcamp.com/
■Argue Damnation解散後
――その後、雑誌『ADiCTS』を始めますが、これはいつ頃でしたっけ?
松原 2007年。
――その間は何してたんですか?
松原 仕事(笑)。Argueをやってたときも、ずっとデザインや広告、本の仕事をしてたから。『ADiCTS』はねぇ……「お仕事」です(笑)。仲のいいパンク好きのライターと編集者がいて、3人で作った。パンクの本作りたいなぁって話から、企画を立てて、オークラ出版へ持っていって出したのが『ADiCTS』。パンクの本だし、好きなことだから人から見たら趣味に思われるかもしれないけど、版元にお金を出してもらって作った本やから、区分としては「お仕事」やね。
――『ADiCTS』は2号で終わり?
松原 そこそこ売れてたけど、版元的には予想していたほど売れなかったということで、打ち止めになった。それで2号目を作っているときに、3号目では「あれをやろう」「これをしよう」って、協力してくれた人たちやバンドに約束したことがいっぱいあった。けど、続けることができなくて、その約束を果たしたいなと思って始めたのが『MOBSPROOF』。F.F.T.を中途半端で終わらせてしまったし、バンドもなし崩しで終わったしで、色々と過去の後悔もあったから同じ轍は踏みたくなと思って。
――F.F.T.が終わる時点で、リリースの予定はあったんです?
松原 Gotchaのシングルを出す予定だったけど、不義理をしてしまった……。その頃は誰とも連絡をしなくなってしまってたし。だから、それはもう嫌やなと思って、始めたのが『MOBSPROOF』。
――『MOBSPROOF』はどこかの出版社から出したわけではない?
松原 そう、あれは全部自分で出版社コードを取って態勢を整えて、完全に自己資金で始めた。F.F.T.をやっていた頃よりも物事がわかってきたからっていうのもあるけど、僕は、Crassは批判する対象やメジャーレーベルと同じぐらいの影響力を持って、自分たちでやっていたように感じていて、『MOBSPROOF』もそれを目指した。他の出版社と同じ土俵で自分の理想の本を作って世の中に広めるために、出版社コードを取って、流通も大手出版取次と契約して、日本中どこの本屋でも買えるようにした。対抗するなら、対等の立場でやりたかった。
――じゃあ『MOBSPROOF』はF.F.T./『Anarcho Icon』の延長っていうことですか?
松原 意識的にはそう。でも端から見たら違うんちゃうんかな。『ADiCTS』の延長と思われてるかも。作ったきっかけは『ADiCTS』やけど、思想的、根本はF.F.T.の方が近い。『MOBSPROOF』は資金集め、企画、編集、デザイン、執筆、流通などなど、基本的にひとりでやってるから。もちろん、いろんな人が協力してくれてるからできているんやけどね。
――『MOBSPROOF』は、全部読んでるわけじゃないですが、パンクに特化してるというわけじゃないですよね?
松原 特化してるつもりやけど(笑)。「別冊」と「EX」は違うけど。それぞれ、一応棲み分けをしてる。『MOBSPROOF』本誌は基本的にはパンク。そこにポップな要素を入れて、間口を広げてるつもり。普通の音楽誌って、インタビューとグラビアがメインやん? それだと面白くないから、色々とネタを入れてる。昔のサブカル誌ノリで。結果的にあんまり音楽誌っぽくないように見えるっていう(笑)。
――そう、最初は戸惑ったというか、松原君は何がやりたいんだろうと(笑)。
松原 パンクってキャッチーやし、一言に「パンク」と言ってもいろんな個性を持った人がおるわけで、そういう人たちが「パンク」というフィルターを通して自分の発言ができる。そういった誌面を目指したのが『MOBSPROOF』。でも、今はずっと出していないから、僕のユニット名みたいな感じ(笑)。
――ああなるほど。じゃあ「別冊」は?
松原 ものを表現する人っていうのは、個の力が大きくて面白いんじゃないかというのをずっと思っていて、そこにフォーカスを当てたのが「別冊」。第一弾は、神戸にオレっちっていうずっと手書きのフリーペーパーを作っている人がおるねん。「BCT」っていう手書きのフリーペーパーを十年以上作っていて、相手が相手やったら名誉毀損で訴えられるようなことも書いてる(笑)。でも、オリジナリティや笑いのセンスがすごく高くて素晴らしい。そんな、オレっちの特異なパワーをまとめたのが『BCT best of BCT』。
――『MOBSPROOF』の「別冊」のコンセプトというのは、ジャンル問わずで、パンクにこだわっているわけではない?
松原 そう。『MOBSPROOF』本誌が「個の集合体」やとしたら、別冊は「個」やね。
――ちなみに「EX」もありますが。「EX」は「別冊」とは違う位置づけなんですよね?
松原 「EX」はどこかの出版社から、MOBSPROOFのテイストを含んだ本を出す場合につけている名義。常にEXシリーズを出してくれる出版社は探してる。
――「EX」は出版社も変わるわけですね。「別冊」は他にはどんなものを出してます?
松原 あとは、『日本革命ロックガイド1960-2010』(2011年)とか、全部で4冊ほど出してる(『片岡冬木写真集 PHOTO AND DESTROY』はMCRがメイン発行元)。『日本革命ロックガイド1960-2010』も個人個人が、好きな音楽の魅力を発信する、という内容。
――あれはタワーレコ―ドと一緒に作ったんでしたっけ?
松原 そう。みんな「タワレコ云々」って言うて……、まあ、昔は僕も思ってたけど(笑)。でも、中には確信的にそういう組織の中に入り込んで、何かしようと思ってやってる人もいて。『MOBSPROOF』を始めたときは、ラフィン・ノーズが非常に参考になったというか。ラフィンはメジャーにいって、一般層にパンクを広げていったわけやん? あとBalzacも、すごく人気になって、彼らきっかけでディグってジャパコアやクラストにきた人もおったわけ。そういった役割をする人やバンドって、未来を作っていくためには絶対必要やと思うねん。
――きっかけになるような意味で、ということ?
松原 そうそう。手前味噌やけど、全然パンクでもない人が『日本革命ロックガイド1960-2010』みたいな内容のガイド本を作っていたら、全然違うものになっていたと思う。タワレコにもそういう人が何人かおったから、この本ができたわけで。
――じゃあタワレコとコラボというよりも、タワレコの中のそういう「わかった人」と一緒にやったっていうわけですね?
松原 そう。国広君(現Maverick Kitchen)っていう昔からの知り合いで、アンテナをビンビンに張っていて、エッジの効いた良い音楽を広めようとしている人。
■パンクとアイドル
――パンク好きな人で、アイドル好きな人は結構多いみたいなんですが、松原君は本を出す側、情報を発信する側として、『MOBSPROOF』や「別冊」などでアイドルを絡めてきてるのが多いと思うけど、そこはどういう意図があったのかなと。
松原 BiSに関しては……あの時はほんまに僕は狂ってた(笑)。これは間違いのない事実です(笑)。
――BiSは何冊か出してましたっけ?
松原 BiSはライブ写真集『MOBiSPROOF』を出した。『MOBSPROOF』本誌にも2回くらい載ってもらったよ。これはね、ほんとに僕がBiSに狂ってたから。
――何でそんなに狂ったんです?(笑)
松原 とにかくライブがすごくて、多幸感と中毒性があった。ちょうど個人的にパンクやハードコアのライブに楽しさを見出せなくなった時期でもあって。
――BiSのどういうところがそんなに?
松原 ステージの上で死んでもええっていうぐらいの気合いでライブをやっていて。言い過ぎかもしれないけど、『消毒ギグ』や『Final Noise Attack』のときのような衝撃というか、それに近いテンションを感じた。リリイベ週になると、ほぼ毎日1日に2、3度のステージをこなしたり。24時間ライブとかやばすぎない!?(笑) メンバー間や運営と衝突があったり、それぞれルサンチマンを抱えてたり、グループに付随するストーリーもすごいエモかった。あと研究員(BiSのファンの総称)の熱狂度もすごかった。
――ほう……。ファンってどんな層なんです?
松原 研究員は他のアイドルのファンと違って、ちゃんと音楽を聴き込んでる人が多かった。ちゃんとAssückやDropdeadの話とかも通じるし、ほんまにアンダーグラウンドのバンドやノイズの話も大丈夫なくらいで。しかもすごいクリエイティヴ力があって、自分たちで色々企画して作ったり、ネタを仕込んで会場を盛り上げたり、ガチンコでステージと客席がぶつかっているのは本当に刺激的だった。本気でふざけてて。
――往時のアメリカン・ハードコアのライブみたいなのかな…。
松原 そう。それがすごくおもしろかった。で、完全に僕も狂ってしまって。でも、他のアイドルを見ても、テンションが高いっていうか、パンクもそうやけど、刹那的にステージで完全燃焼しようとしている感じがするから。とんでもない衝動がある。
――パンクとアイドルの共通点というのは、松原君自身も何か見出してるってこと?
松原 でも、その衝動くらい。厳密にいうと、アイドルの精神性はパンクとは別物なのは確かだし。ステージでの気迫や、クリエイティヴな部分などは共通してるとは思うけど。『MOBSPROOF』上では、表現しやすいからパンクのフィルターを通してアイドルも語るけど、精神性に関しては、いわゆるこの本で語られているようなパンクとは違うと思う。単純に楽曲のクオリティが高いものも多いし、ステージングも凄いから、ライブは本当に面白いなとは思ってる。
――アイドルの楽曲はどういう人が作ってるんです?
松原 元々バンドマンやった人も多いよ。Poikkeusのゼロツくんも作ったりしてるし。ちゃんと音楽を聴いてきた人が多いと思う。
――じゃあアイドルを『MOBSPROOF』に載せることに関しては、葛藤みたいなものはなかったということ?
松原 載せたのはBiSだけ。あれは狂っていたわけで……(笑)。「別冊」ではせのしすたぁの『IDOL! aLIVE!』を出してるけど。それは、せのしすたぁが持ってるポテンシャルに凄いものがあるから、そこにフォーカスした。
――ああ、「別冊」はパンクにこだわらないってことだから、一応棲み分けはされているということですね。ただ、そうやってパンクもアイドルも書籍で取り扱ってる松原君から見て、パンクスにアイドル好きが多いのは、なぜだと思います?
松原 単純に、面白いからじゃない? 10代、20代のうら若き女の子たちが、今ステージの上で死んでもいいくらいの燃焼率で全力のライブしてるやん。それって昔のハードコアと通じるもんがあるかも。気合いが凄いっていうか、それは感じるなあ。
――まあその人の中で、パンクがマンネリ化してつまんなく感じる時期とか、波もありますよね。
松原 そうそう。でも、この前のAccidenteの来日ツアーもすごい良かったし、ハードコア・パンクも楽しい時もある。そういえば、ハードコア・パンクを聴いてるアイドルも増えてきたからね。元々アングラな子がアイドルをやってることも多いし。前に聞いたのが、「今、もしパンクが流行ってたらパンクをやってただろうけど、今はアイドルが流行ってるから私はアイドルをしてる」って。
だから、最先端の刺激的な音楽を求める人が、アイドルに行ってるのかなってのはすごく思う。でも今はヒップホップやハバナイ(Have a Nice Day!)みたいなエッジの効いたバンドの方がすごいから、そっちへ行く人の方が多いかもしれないけど。
――パンクに刺激がなくなったことの裏返しなんですかね。
松原 刺激を求めてる人ってのは、もう中毒患者やん? 刺激中毒。だから、パンクやハードコアの次にアイドルに行って、次はヒップホップやエッジの効いた音楽にいくようになるのかもしれないね。
――僕の勝手な偏見なのかもしれないですが、アイドルって言うと、どうしても「サブカル」ノリみたいなのが強いのかなって思うんですが。
松原 そういうサブカルノリみたいなのはあると思うよ。
――パンクは元々はもっとカウンターカルチャーというか、まあ日本ではそうはなりえなかったのかもしれないけど、サブカルとはちょっと違うものだと思ってたんですが――そもそも「サブカル」が何を指すかという話もありますが――、そのあたり、松原君の中でわだかまりみたいなものはあります?
松原 日本では、パンクは曲解されてるなというのはあるよね。
――日本では未だに、「パンク=セックス・ピストルズ」が更新されてないというか、例えば最近人文系で流行ってるアナキズム研究者の栗原康とかの周辺でも、「パンク=アナーキー=セックス・ピストルズ!」みたいなことを平気で言いますね。
松原 それは単純に、社会全体のパンクの認識がそこで止まってるってことじゃない? 僕らは色々なものを聴いてるけど、世間一般は僕らが思うほど音楽を聴いていないし、文化に興味がない。本も映画もディグる人は年々減ってる感じはする。だから、「パンクはピストルズでしょ、アイドルはAKBでしょ」って。
――日本はその傾向は強いですよね。アメリカの映画や、Netflix のドラマとかでもいいんですが、ある程度「パンクとは何か」ってのが世間もわかってて、それがフィクションの中でも一応そのように描写されてるんですよね。カウンターカルチャーのひとつとして認識されてるというか、暴動を起こしたりして社会に反抗する人たちとか、ブラック・ブロックみたいな描写とか。だからパンクはセックス・ピストルズで止まってないんですよね。日本ではその認識がない。
松原 それはさっき言った、Xデーに行動したパンクスが一般的なメディアに取り上げられることもなかったし、パンクスがこういうのに関わって何かしてるっていうのは、一般の人は誰も知らへんのやないかな。僕らがデモに参加したときも、最初は「何でこんな若者がおるんや?」くらいに思われて。
――ああ、デモ行って、「あんた変な格好しとるなあ」って年配の方に言われたりとか。
松原 そうそう。「僕らはこう考えていてデモに参加しに来ているんです」って説明したり(笑)。だからそれが「パンク=ピストルズ程度の認識」というステレオタイプなんだろうね。デモに行っても世間のパンクスへの認識は変わらない、っていうことは、絶対数が少なくて、注目されることがなかった、ってことなのかもね。
――それは例えば、いわゆるメジャーに出た分だけパンクが認知されるとしたら、もっとパンクはメジャーに出ていった方がいいのかどうかという話につながるわけで、松原君はメジャーにも出られる出版媒体を持っているわけじゃないですか。そのへんはどう思います?
松原 さっきのラフィン・ノーズや、Balzacから入ってきた人の話じゃないけど、アンダーグラウンドのシーンに入ってきて、そこで意識が変わって、ずっとパンクでいる人も出てくるわけやん? だから、もっと認知されたらええのになってのは思う。『MOBSPROOF』はそう思って作ってた。ただ、曲解されないようには心がけて。
――「取っ掛かり」になるということですよね。
松原 うん。別に他の人が俺のことを、日和ったなあとか、チャラチャラした内容やなとか思ってもええねん。『MOBSPROOF』きっかけで入ってきて、アンダーグラウンドのバンドのライブに行くようになって、そこでほんまもんになったらええんちゃうのって思う。
――松原君はあくまで媒介だと。
松原 そう、そういう立場でやってた。それで何人かでも入ってきてくれてたらええんやけど。
■基本的に考え方は変わってない
――90年代にF.F.T. をやって、2000年代は『ADiCTS』や『MOBSPROOF』をやって、2010年代は「別冊」とかをやってと、いろいろやってきたわけですが、通して振り返ってみると、松原君自身の中で変わったもの、変わってないものというのはありますか?
松原 基本一緒やと思う。基本的にユルいから(笑)、生活とかも含めたバランスさえ崩さないようにしてるというか。F.F.T.のときに行き過ぎたから疲れてフェードアウトしてしまったわけで、今はバランスだけは崩さないようにしてる。基本的に考え方は一緒だし、やり方に柔軟性が出たんかなあとは思う。まあ状況も全然違うしね。当時は7インチ一枚500円で出してたけど、今は絶対無理やから。肉も食べるようになったし。
――数年前、国会前でSEALDsとかの運動が盛んだった時に、パンクスが「選挙に行こう」みたいなことを言ってて、あれ、これは僕がハードコア・パンクやアナーコ・パンクから学んだこととは違うなと、凄い違和感を感じたんです。パンクスすらも、いわゆる「リベラル化」しているというか。でその選挙に行くことが「政治的」な行動だとでも思ってるのかなあと。このへんは何か思うことあります?
松原 ああ。あれはちょっと思うことがあって、最近、パンクスが他人に選挙に行け、って言うのは、これは多分にヒップホップの影響が強いのかなと思って。アメリカってラッパーが政党を支持して、選挙に行こう、とか言うやん。それって黒人には差別されてきた歴史があって、元々選挙権もなかったから、自分たちで勝ち取ってきたっていう流れもあるからだと思うんやけど。SEALDsとかあの辺の人らって、ヒップホップのカルチャーの影響が強いような気がするねん。だからそのへんの意識が日本的に解釈された結果なのかなと。それで、それまでは特に政治的な活動とかはしてこなかったパンクスに、突然そういうカルチャーが入ってきて、影響されたのかなと。
――「3・11」があって、「目覚めた」人たちですよね。
松原 そうそう。それまでは空っぽで、急にそういうのが入ってきたからそれを信じたわけで。だから僕らが影響を受けたアナーコ・パンクの歴史を生きてきた人からすれば、何か違和感はある。選挙行くのは権利だし、最低限の意思表示だから、自分の意思、判断で行くのはええと思うねん。でも人に言うことではなくて。元来政治ってそういうものだと思うけど。だから、バンドやパンクスとして、他人に選挙に行けとか言うのは違和感がある。世間一般では、選挙行けっていうのは、至極真っ当なことではあるけど、パンクってもっと違うでしょっていうのがある。
――最終的には「国家権力を倒せ」とか言ってきたのがパンクスやアナキストなわけだし。
松原 そう、僕たちが考えていたパンクっていうのは、自主独立だから。大きな力に頼るのは一番危なくて、それこそヒトラーが出てきた背景だって同じなわけだし。個人が自律して、世の中を良くしていく、っていうのが本来のアナーコ・パンクの考え方なんじゃないかな。
――それが相互扶助ということですしね。でもそういうリベラルなパンクスがSNSでリベラルっぽいことを言って…。
松原 パンクはピストルズと思ってる世間一般の人が、パンクの人もこういうこと言ってる、って思われてしまうと(笑)。
――そこでピストルズがまた増幅される(笑)。
松原 そうそう。間がすっぽり抜けてしまってるよね。でもこれは僕らが悪い。ちゃんと発信できていなかったし、残せなかったのが悪い。やっぱり世の中、声がでかい人の方が勝つから。そういうことに対しては、僕らは弱すぎた。発信ができていなかった。
――そうですね。それを考えると、「3・11 」があって、反原連とかがデモをやって、そこに回収されていったパンクスが多いのも当然の帰結なのかもと。あの辺は発信力もあるし影響されやすいのかもしれないですが。
松原 そうそう。あとオシャレやんか(笑)。
――確かに、やり方がうまいというか、ポップというか、まずちゃんとした服着てるし、小汚くないし、真っ黒じゃないし…。
松原 そうそう(笑)。でも、大きな流れで今の現状があるわけで、僕らが今更どうこう言える立場じゃないし、もしかしたら頑固なだけで考え方が古いって言われるのかもしれないけど。ただ、この前の(自民党総裁選で)安倍を落とすために石破を支持しよう、っていうのもそう。根本は自民党なわけやから、彼らの最終的な目的は僕らからしたらアンチなわけで、どっちでもあかんのに、そこをわかってるんかなと。
――そういうリベラルの人たちは、自分たちに政治家を操る力があると勘違いしてるようにも思えるんですよね。
松原 政治家ってのはとんでもない力持ってるわけやから。自民党はこう、っていう大前提がわかってないわけ。あれは怖くて仕方ない。根本的な視点がなってないのか、シニカルな視点がないのかわからないけど、もしかしたらめちゃくちゃ素直だからなのかもしれない。大きな力に頼る人ってのは、大きい方になびくわけだし。すごい危ういと感じてしまうねん。
(2018年9月25日、市ヶ谷某所にて)