Debacle Path vol.1の小特集、「日本のポリティカル/アナキスト・ハードコア・パンクを回顧する」に掲載した松原弘一良君のインタビューをここにも再掲します。誌面には載せきれなかった写真や、ライブの動画入り!
パンクっていうのは自主独立/松原弘一良(Argue Damnation, F.F.T. Label, Mobsproof)インタビュー
■ Filaria からArgue Damnationへ
――まず松原君のバンド遍歴から伺っていきたいですが、最初にやっていたバンドは?
松原 ちゃんとしたバンドは、地元の友達と始めたFilariaっていうジャパコアのバンドが最初。デモテープ1, 2本しか出してないようなバンドで、地元の神戸と大阪をメインにライブをしていて。1回だけ東京でライブした程度。2年と少しくらいやってたかな。
――それは何年頃の話?
松原 結成が1990年で、ボーカルが完璧主義者だったから1年くらいスタジオに入って、ライブ活動は91年から93年。ボーカルはその後東京出てきて、Genkotsuっていうジャパコアのバンドをやってたみたい。
――Filariaの音は完全なジャパコアでした?
松原 そう。あとは、横浜銀蠅やアナーキーのカバーをしてたから、ほんまに神戸の片田舎のパンクスが、ハードコアをやろうとしてたみたいな感じ(笑)。当時はちょうど空白の時期で、神戸にハードコアのバンドがいなかった時期。同時期に活動していたバンドはJimmy Gunsとか、Club The Star系のバンドが多かったかな。神戸にはそういうお店もあったし。
――Argue Damnationを始めたのはその後?
松原 そう。94年に結成した。
――その頃には、いわゆるクラストのバンドは、もうまわりで活動していたんですよね?
松原 90年代入った頃にはもう活動してたね。『Final Noise Attack』(Gloomが梅田Guildで主催していたシリーズ・ギグ)もやってたし。
――今回のこの小特集では、ハードコア・パンクと、いわゆる政治性の関連にフォーカスしようとしてインタビューをしてるんですが、バンドをやり始めて、そういった政治的なことに目覚めた、気にしだしたのは、何がきっかけでした?
松原 そういう風には考えてなくて、ハードコア・パンク=政治的なもの、社会に対するものだと最初から考えてた。大前提としてそれがあるもんやと思ってたから、それ以外はハードコア・パンクだとは思ってなかった。
――最初からそういう風に思ってたというのは、例えばどんなバンドを聞いて?
松原 それこそClashとか、アナーキーとか、Crassとか聞いても、そういうことを歌ってるやん? だから最初からそういうものだと思ってた。
――アナーキーも?
松原 そう。天皇制批判から自分たちの身の回りの不平不満まで分かりやすく歌っていて、めちゃくちゃ影響を受けたよ。
――じゃあ最初のFilariaをやってたときから、歌詞ではそういうものを扱っていた?
松原 僕が書いてたのはそうだった。ボーカルはまた別の考えを持ってたから、彼が書いてたのは、もっと、どっちかというとジャパコアに近いようなのやったけど。
――当時からやっぱりクラストとジャパコアとでは、歌詞の内容は折り合わないというか…。
松原 歌詞の人称が違うからね。内に向かうか外に向かうかという点でも違うし。でも、そこはバンド内では折り合いは取れていた。
――Argue Damnationをやり始めたのは、もっと政治的なバンドをやりたいからとか、何かコンセプトがあったからですか?
松原 コンセプトと言えるほどのものはなかったかな。とにかくクラストがこの世の中で一番かっこええものやと思っていたし、考えてることも近いな、って。ファッションも自分たちで徹底的に作り込んで、他とは全く違っていたから。とにかくクラストバンドをしたいっていうプリミティヴな衝動だけだったよ。
――特に影響を受けたのは?
松原 CrassやConflictなどアナーコ・パンク全般と、Extreme Noise Terror やDoomなど海外のバンドはもちろん、国内のバンド含め当時活動していたクラストバンド全般。とにかく、曲、ファッション、思想、すべてがかっこいいと思ったし、その時は、これ以上のものはないと思っていた。レーベル(F.F.T. Label)をやり始めたのも、デモテープを出すんやったら、レーベルも一緒にやってみようかなっていう軽いノリやった。MCR CompanyやD.I.Y. Recordsの活動を見ていて、全部自分たちでコントロールできるのはええなあと思って。あと海外のレーベルと連絡を取って、広がりができるのもええなあと。バンドだけでもよかったんやけど、そういうのが面白そうで、レーベルも一緒に始めたんだよね。
――その頃は、レーベルとしてはどういうバンドと連絡を取ってたんです?
松原 地元神戸のバンドだけのコンピを作って、日本全国のコンピも作りたいなってどんどん欲が出てきて、「コンピレーションを作りたいから、デモテープを送って下さい」って、募集告知を『Doll』に出したのが最初かな。そうしたら、まだLiberação時代のFrigöraから連絡があったり。当時はレーベルもいくつもあって活発やったし、パンクスもバンドも多かったと思う。バンドブームの残り香っていうのがあったのも強いのかな。クラスティーズも増えてきた時期やったと思うし、国内外たくさんのバンドと連絡を取るようになったよ。
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