【Debacle Path vol.2より】DSA(アメリカ民主社会主義者)について

アメリカの大統領選挙も迫ってきたので、Debacle Path vol.2の小特集「ハードコア・パンクと学術」の付録として掲載した、A・K・アコスタによるDSA(アメリカ民主社会主義者)についての簡単な解説をここにも転載しておきます。
民主党の大統領候補は正式にジョー・バイデンになりましたが、本稿では米民主党をより左派へと動かす原動力となっているDSAについて説明しています。バイデンが選ばれ、またもやバーニー・サンダースが大統領候補にならなかったことはDSAや民主党左派にとっては大きな落胆でしたが、今回副大統領候補に選ばれたカマラ・ハリスに対しても、DSAや民主党左派からは、ハリスは警察に近いという声が多数で、ハリスを支持する姿勢は見られないようです。ただし現在のアメリカのアクティヴィズムは、かつての「アナキストや反権威主義、自律的傾向は、現在の若い世代の左派には「時代錯誤」だと見られており、そういった若者たちは、より組織化され、明確な選挙戦略を持つものに参加したいと考えている」(本稿より)という傾向もあり、DSAはバイデンの支持は表明していないものの、投票は各人が勝手に行うものとしているため、「仕方なく」バイデンに投票するDSA党員、支持者もいるのかもしれません。
アメリカの大統領などは民主党のオバマだろうが共和党のブッシュだろうがいずれも人殺しには変わりなく、正直なところトランプもバイデンも大した違いはなさそうにも思えますが、新型コロナウイルスへの対応も完全に失敗している国でもあり、アメリカにいるパンク友人たちのことも心配なので、注視はしていきたいと思います。(鈴木)


DSA(アメリカ民主社会主義者)について/A・K・アコスタ
-Debacle Path vol.2 (2020年4月)より転載

 2016年、ヒラリー・クリントンは民主党大統領候補選挙においてバーニー・サンダースを破り、続く総選挙においてドナルド・トランプに負けたことにより、多くの人を幻滅させた。民主党は長きに渡りネオリベラル組織として機能し、左翼や急進的左翼の潜在的な有権者を無視してきた(対照的に、共和党はその間、「極右」を組織の中に取り込んできた)。これら当時のバーニー・サンダースの支持者の多くは、アメリカの政治に何か新しいものをもたらそうというパワーに満ちあふれていたが、そこで彼らが発見したものは、その成立からおよそ40年経つ組織、「アメリカ民主社会主義者」(Democratic Socialists of America, 以下DSA)だった。
 DSAは1982年、「民主社会主義者組織委員会」(DSOC)と、60年代の新左翼運動に関わってきた「ニューアメリカ運動」(NAM)とが合流することで生まれた。DSOCは1973年、アメリカ社会党の分裂後にマイケル・ハリントンによって結成された。DSAは六千人ほどの党員数で始まり、その中には著名な作家のバーバラ・エアエンライクもいた。DSAの党員数は何十年もの間変化することもなかったが、2017年のドナルド・トランプの大統領就任後にその数は急増し、その年の暮れには党員は三万二千人を越え、翌年には五万人に達した。全国の支部数も同様に40から181へと増加した。トランプ政権の最初の年である2017年には、DSAは民主党を通して連邦議会や地方選挙に候補者を送り出すことに注力し、同年に全米13の州において地方選候補者15名を当選させることに成功。翌2018年にはDSAの党員2名、アレクサンドリア・オカシオ=コルテスと、パレスチナ系女性政治家のラシダ・タリーブを米議会で当選させ、地方選では11名の党員が選挙に勝利した。
 アメリカの議会制度は、かつての日本と似たように二大政党制であり、選挙戦の候補者のほとんどは共和党か民主党のどちらかから出馬する。これには様々な理由が挙げられるが、その両党には党を組織する全国委員会があり、委員会は自党から出馬する選挙の候補者に資金を配当したり、候補者の選挙戦をサポートするため、候補者たちはその利益を得るためにどちらかの政党から立候補するわけである。
 同一の党内でも、現職の議員に対抗して立候補する候補者もおり、保守陣営=共和党の一例としては、極右の候補者が中道の共和党現職議員を破った2010年の「ティーパーティー運動」が挙げられる。左派においては、2018年の予備選において、先述のアレクサンドリア・オカシオ=コルテスが現職の民主党下院議員のジョー・クローリーを破った出来事が有名な例となった。ジョー・クローリーは民主党全国委員会のサポートを受け、およそ12年に渡り下院議員を務めてきた民主党員だったが、オカシオ=コルテスとDSAは2016年のバーニー・サンダースの大統領候補選挙に影響を受け、より明確に左派的な政策を打ち出してクローリーに勝利した。このように、DSAはそれ自体としては〝政党〟ではないが、民主党主流派よりも、より左派的な政治家をサポートしている。
 ちなみに最も一般的な「第三の党」は「無所属」であり、バーニー・サンダースはアメリカの歴史の中でも最も長い任期を務めている「無所属議員」だ。ただ大統領選挙においては民主党から出馬している。アメリカ議会における無所属の議員は通常、共和党か民主党どちらかと近い関係を持つが、その党の政策すべてに同意できないなどの理由があれば無所属の立場を選ぶ者が多い。
 DSAは、現代アメリカで起こった左翼アクティヴィズムの時代――1990年代後半から2000年代前半にかけての反グローバリゼーション運動や、ブッシュ政権時代の反戦運動、またオバマ政権下ので〝オキュパイ・ウォールストリート〟運動など――から大きな転換があったことを象徴する。それら一連の運動における、アナキストや反権威主義、自律的傾向は、現在の若い世代の左派には「時代錯誤」だと見られており、そういった若者たちは、より組織化され、明確な選挙戦略を持つものに参加したいと考えているようだ。瞬く間にアメリカで最も有名な政治家のひとりとなったアレクサンドリア・オカシオ=コルテスの当選も、DSA周辺における選挙の有効さというものを体現することとなった。長い間敗北を味わってきたアメリカの左派は、オカシオ=コルテスやタリーブ、イルハン・オマル〔ソマリア出身。ムスリム女性初の下院議員〕らの当選や、地方選での勝利でより活気づけられることとなった。
 DSAは地方の支部により組織され、定期的なミーティングが行われ、党員からは党費を徴収することで運営されている。個々のDSA支部により、目的、政治的志向、活動はそれぞれ異なるのが特徴的だ。特に党内の小集団によって政治思想は異なり、DSAがより知名度を得ることで、アナキスト、共産主義、社会主義的なバックグラウンドを持つメンバーも入るようになった。バーニー・サンダースが現れる以前の「古い」DSAのメンバーの間では、より民主党と共闘する姿勢が見られる一方で、新しいメンバーは自分たちのことを気軽に「社会主義者」や「共産主義者」だと呼び、政治的変化のためには邪魔者のネオリベ組織だと考える民主党との共闘は望んでいない場合が多い。有名な左派コメディ・ポッドキャストの“Chapo Trap House”や、広く読まれているオンライン・マガジン“Jacobin”, “Baffer”などがDSAを支持し党員数を促進させるなど、DSAは「トランプ以降」の希望なき風潮に対する対抗手段となっている。DSA内での異なる政治思想については、ジョージア州アトランタで開かれた2019年9月のDSA党大会で明らかとなった。DSA内の様々なグループが権力を争い、35歳以下の人々で構成される新しいグループの党員と、古い党員との間では、特に先述のような緊張が見られた。DSAがどのような党になるべきかというテーマについて、意見の相違は大きい。先述のように、古い世代の党員たちの間では、DSAは民主党の中で動くことで民主党をより左派的に動かしていくことに焦点が当てられている一方で、若い世代においては労働組合への加入など、分散化された政治を志向する傾向や、また民主党とは距離を置くべきだとの強い主張が見られる。

 上記画像のように、DSAは赤いバラをそのロゴとして使用している。これは赤いバラが19世紀から社会主義のシンボルとして使用されてきたことによる。DSAのメンバーはそのツイッターやその他ネット上のハンドルネームにバラの絵文字を入れるのが当たり前になっている。“Rose Emoji Twitter”というフレーズ自体が、社会主義的な政治観についてよくツイートするツイッター・ユーザーを指すこともある。
 2020年の民主党予備選挙の結果は、おそらくこの号が発売されるころには判明しているだろう。この短い記事を書いている現在(2020年3月上旬)、バーニー・サンダースが勝つ可能性は残念ながら低そうだ。DSAはバーニー・サンダースの選挙戦や、サンダースが取り組んでいる争点をかなり積極的にサポートしてきた。大きな争点のひとつは、「メディケア・フォー・オール」と題し、現在のアメリカ社会で深刻な危機となっているヘルスケアや健康保険の問題に取り組むものだ。この計画は、65歳以上の高齢者や一部の障害者向けにヘルスケアを提供する、すでにアメリカに存在する制度であるメディケアを、アメリカに住むすべての人々に提供するというものだ。「メディケア・フォー・オール」は現在の予備選候補者の間で大きな争点となっており、サンダースがその最大の主張者となっている。候補者のひとり、エリザベス・ウォーレンはその選挙戦の初期には「メディケア・フォー・オール」を支持していたものの、後になってその主張を撤回し、その結果支持率は低下し、最終的にウォーレンは選挙戦から撤退した。メインストリームの中道派の候補者であるジョー・バイデンは「メディケア・フォー・オール」には強く反対している。というのも、バイデンは選挙資金を民間の保険会社や製薬会社から得ているためだ。もしバイデンが2020年大統領選挙の民主党候補者になった場合、DSAはどう動くのかは今のところ不明だが、アメリカにおけるより強力な左派政治の基盤を築くという願いを込めて、あらゆるレベルの選挙において、より左派的な人々が当選するようにこれからも活動していくであろうと思われる。

https://communemag.com/when-the-wave-crashes/ より

【Debacle Path vol.1より】Antisect小史――昔のAntisect、今のAntisect

Antisect小史――昔のAntisect、今のAntisect
鈴木 智士
(Debacle Path vol.1(2019年3月)より再掲)

2017年に、34年振りのフルアルバム、『The Rising of the Lights』をリリースしたUKアナーコ・パンクの「伝説」Antisect。今回はオリジナルボーカルのピート・ボイス氏に話を聞き、そのアルバムの発売前にネットを賑わせた「問題」に焦点を当てながら、バンドの歴史を追った。
※本稿は、2018年7月に執筆したまま、特に何の媒体にも載らなかったものに、加筆修正を施し掲載したものです。ピート・ボイス氏へのインタビューは同年5月~6月に行われました。


醜聞

 世の中に存在する「表現」すべてにあてはまることだろうが、いわゆる「マスターピース」というか、これがなければ今日の表現は存在しなかった、と思えるような作品や表現者は、誰しも必ず心の中に一つや二つ持っているだろう。ポーの「黒猫」や「アッシャー家の崩壊」などの一連の作品群がなければ怪奇小説は隆盛しなかっただろうし、イングマール・ベルイマンがいなければ今我々が見ている映画も、もしかしたら全然違ったものになっていたのかもしれない。いや、別にベルイマンじゃなくてもいいんだけど、この前生誕百周年特集の予告を見たので……。
 さて、それを突然だがアナーコ・パンクにあてはめてみると、CrassやConflict, Crucifixなど、いくつか思い当たるバンドがあるが、イギリスのAntisectこそがその最たるものの一つだと言っても特に文句はないはずだ。彼らのファーストLP『In Darkness There Is No Choice』(1983年)が漂わせる始終張り詰めた緊張感は、凡百のバンドに出せるものではないし、その歌詞は、動物の権利や監視社会、「第三世界」の不平等など、当時のバンドの多くが扱っていたものだが、あのトリプルボーカルで説教のように捲し立てるボーカリゼーションの攻撃性は、今聞いてもまったく衰えを感じない。おまけに「Channel Zero (Reality)」なんかは、完全にその後の世界を予見していた。ラインナップが変わり、そのアルバムの二年後にリリースされたEP『Out from the Void』にいたっては、あのリフやアートワークの世界観にやられたパンクスは数知れず。AntisectのTシャツ、パッチやペイントは今でもそこらじゅうで見るし(特に日本ではよく見る気がする)、それらのリリースから30年以上が経った今でも、引き続き多くのパンクスに影響を与え続けているバンドである。

 さて、本稿では、2018年11月には初の来日ツアーを終えた、そのAntisectの歴史を簡単に振り返ろうと思う。2011年、24年振りに活動を再開したAntisectだが、再結成後も幾度かのメンバーチェンジを経て、現在はオリジナルメンバーのひとり、「ミスター・Antisect」こと、ギターのピート・“リッピー”・ライオンズ、再結成時からバンドに加わったドラマーのジョー・バーウッドに、『Out from the Void』時代のベース、ジョン・ブライソンを迎え、スリーピースで活動している。そのラインナップで2017、アルバムとしては34年振りとなる『The Rising of the Lights』(以下「新アルバム」と呼ぶ)を、リー・ドリアンのRise Above Recordsからリリースした。そしてこの新アルバムが、その音楽性の変化だけではなく、様々なレベルにおいて物議をかもしたのも有名な話だ。今回はその「有名な話」のひとつ、ソーシャルメディア上でのバンドのゴタゴタを中心に話を進めていきたい。

 こんなことを取り上げるなんて、とてもおせっかいなことなのかもしれないが、先述のように、Antisectはアナーコ・パンクを語る上で欠かすことの出来ないバンドのひとつだ。再結成したと聞いたときには、驚き半分嬉しさ半分、ライブも見てみたいなあと思ってはいた。ただ、新アルバム、いや、そのリリースの前にYouTubeに公開されたアルバム収録の新曲――一連の議論の発端になった曲だが――を聞いたときには、何と言っていいかわからない、肩透かし、虚脱感のようなものを感じた、というのが正直な気持ちだった。Antisectのようなバンドに関して言えば、若い頃にその「マスターピース」を聞いてしまったがために、その後の人生を狂わされた人も多いことだろう。そんな強い影響力を持ったバンドの新譜が、これまで「狂わされ」てきたものとまったく違うとなると、これは由々しき事態だ。ついでに言っておくと、個人的な話になるが、2012年にヨーロッパを旅行していた時、一週間ほど滞在したロンドンでお世話になった友人が、当時Antisectのマネージャーみたいなことをしていて、「日本ツアーしたいんだけど」という話を振られたりした。私なんかの手に負える規模のバンドではないことは明らかなので、国内のお願いできそうな友人数人に一応話を振ったが、金銭的な話も絡んで折り合わず。その後その友人はマネージャーを辞め、日本ツアーの話も雲散霧消。というわけで、ちょっとした個人的つながりもあり、その動向はその後もずっと気にはなっていたのだった。

 さて、この、「醜聞」と言ってしまってもいい話ではあると思うが、実はフェイスブック上ではかなり有名な話で、そんなこととうの昔に知っている、という人もいるかもしれない(そんな方にはこのような駄文を読むのに時間を使ってもらっては申し訳ないので、どうぞ他の記事へ進んでください)。2017年のその新アルバムのリリースの発表があったあたりから、フェイスブック上で「炎上」していたのを何度か目撃した。私が最初に見たのは、なぜかSore Throatのフェイスブックページにおいてだったが、特に火の元となったのが、“Antisect Unofficial”という、現バンドへの批判がつらつらと書かれたフェイスブックのページだ。おそらくその一部始終が知れ渡った英語圏やヨーロッパでは、アルバム発売後のバンドに興味を失った人も多いようで、2018年の4月ごろにAntisectがアメリカツアーをしていたときに、彼らのライブを見た人たちの反応についても、「『あれはちょっと…』って感じだったぜ」と、オークランドに住む友人がメッセージを送ってきた。

 この興味のない人には本当にどうでもいい三面記事にご登場いただくのは、Antisectのオリジナルのボーカルであるピート・ボイス氏だ。最初にネタバレをしておくが、先述の “Antisect Unofficial”ページの「中の人」が、このボイス氏らしい。元メンバーがSNSで堂々と現バンドを批判……。しかも中には批判を超え、怨み節に近いような投稿すらある。余程のことがあったのだろう。バンドの新曲を聞き、そのフェイスブック上での炎上を目撃し、モヤモヤしていた私は、ピート・ボイス氏にコンタクトして、バンドの歴史から今回の「騒動」まで、色々聞いてみることにした。続きを読む →

「アナキズム」紙 第4号に寄稿しました

今年4月から発行が始まった月刊紙、「アナキズム」の第4号(2020/7/1発売)に、当レーベルやDebacle Pathの紹介記事を書かせてもらいました。
東京だと模索舎などで買えます。

月刊情報紙 アナキズム blogsite: https://green.ap.teacup.com/inazumaya/

【書評】Hard-Core: Life of My Own / Harley Flanagan

【書評】
Hard-Core: Life of My Own / Harley Flanagan(Feral House, 2016)
/鈴木 智士(Gray Window Press)

 ちょうど1年前に、「“Cro-Mags”の名称を誰が使うか問題」に決着がついた、という出来事もあったが、アメリカン・ハードコアの歴史の中で、Cro-Magsのメンバーほど「お騒がせ」な人たちもいないだろう。80年代中盤の結成時から、メンバーは出たり入ったり替わったり、その後は様々なバンド名でCro-Magsの(特に1stアルバムの)曲を演奏し、一体何が「本物」なのかと聞く側は混乱した。ただバンドのオリジナル・メンバーであり、ベース(と時にはヴォーカル)を担当してきたハーレー・フラナガン氏によるこの自伝は、その数々の「お騒がせ」のディテールを知る前に、その幼少期にまず驚かされる。
 父はネイティブ・アメリカンの血も入っていたという強盗・サギ師・犯罪者。アメリカの西と東を行き来し、マンソン・ファミリーにスパーンランチに連れて行かれそうになったというヒッピーだった母は、「奇人」ハリー・スミスに“Rosebud”という名前で呼ばれ、ハリー・スミスの「精神的な妻」であったという(この点は先日『ハリー・スミスは語る』を出版されたカンパニー社さんからtwitter上で教えていただいた)。そんな両親はハリー・スミスを通して知り合ったが、ハーレーが生まれてすぐに父は姿を消し、母は幼いハーレーを連れてアメリカ中を、そしてヨーロッパをヒッチハイクで生活するようになる。やがて母はデンマークでドラッグの売人の男と付き合い始め、2人はデンマークに住み着き、有名なクリスチャニアを含め様々なコミューンを渡り歩いたらしい。「フリーラブ」の世界で誰彼かまわずセックスする親たち世代を見て、ハーレーのような子どもたちは思春期を迎える前にアルコール、ドラッグ、セックスを覚えたというから、やはりデンマークという国が現在もおかしい(褒め言葉)のはこういうところに根があるのかもしれない。
 6歳の頃にデンマークのアート偏重フリースクールでドラムを覚え、その後家族はモロッコに数ヶ月住み、そこでハーレーが書いた絵と短編は、その2年後、ハーレー9歳のときにアレン・ギンズバーグの序文付きで出版されている。母や後にStimulatorsで一緒にバンドをやる叔母のDenisはギンズバーグと近く(叔母はニューヨークで他にリチャード・ヘルやらと一緒に住んでいたこともあった)、この頃ハレー・クリシュナの始祖プラブパーダと親交があったギンズバーグから、ハーレーは瞑想を教わったとも書いている。
 ハーレーの初のパンク・ショウは1977年頃のデンマークで、Lost Kids、Sods、Brats(後のMercyful Fate)などを見て、78年には叔母に連れられてイギリスにも行き、「死ぬ前」のオリジナル・パンクを体験してもいる。その後79年に母子はニューヨークに戻り、当時はプエルトリコ人ギャングと黒人ギャングの抗争の場であったマンハッタンのゲットー、ローワーイーストサイド(LES)に移り住む。
 と、この時点でハーレーの早熟ぶりとその環境の特異さにまず驚愕する。10歳にもならないうちにパンクに出会う人はこの世代だったら珍しくはないだろうが、身近にビート・ジェネレーションを代表する詩人がおり、またパンクバンドをやっている身内の女性がいたというのはあまり聞くことのないシチュエーションだ。その後はご存知のように12歳でStimulatorsのドラムを叩き始めるが、1979年2月のシド・ヴィシャスの死により、ニューヨークのパンク・ロックは死んだとハーレー自身も把握しているように、Stimulatorsは(先月末に出たEl Zine vol.42にヴォーカルのスクリーミング・マッド・ジョージ氏のとても面白いインタビューが載っていた)The Mad、Bad Brainsらとともに、NYCのパンクからハードコアへ移行する過程の架け橋のようなバンドとなっていく。CBGBとともに、Max’s Kansas Cityというクラブでパンクのライブが行われていた時代の話だ。続きを読む →