【書評】
Hard-Core: Life of My Own / Harley Flanagan(Feral House, 2016)
/鈴木 智士(Gray Window Press)
ちょうど1年前に、「“Cro-Mags”の名称を誰が使うか問題」に決着がついた、という出来事もあったが、アメリカン・ハードコアの歴史の中で、Cro-Magsのメンバーほど「お騒がせ」な人たちもいないだろう。80年代中盤の結成時から、メンバーは出たり入ったり替わったり、その後は様々なバンド名でCro-Magsの(特に1stアルバムの)曲を演奏し、一体何が「本物」なのかと聞く側は混乱した。ただバンドのオリジナル・メンバーであり、ベース(と時にはヴォーカル)を担当してきたハーレー・フラナガン氏によるこの自伝は、その数々の「お騒がせ」のディテールを知る前に、その幼少期にまず驚かされる。
父はネイティブ・アメリカンの血も入っていたという強盗・サギ師・犯罪者。アメリカの西と東を行き来し、マンソン・ファミリーにスパーンランチに連れて行かれそうになったというヒッピーだった母は、「奇人」ハリー・スミスに“Rosebud”という名前で呼ばれ、ハリー・スミスの「精神的な妻」であったという(この点は先日『ハリー・スミスは語る』を出版されたカンパニー社さんからtwitter上で教えていただいた)。そんな両親はハリー・スミスを通して知り合ったが、ハーレーが生まれてすぐに父は姿を消し、母は幼いハーレーを連れてアメリカ中を、そしてヨーロッパをヒッチハイクで生活するようになる。やがて母はデンマークでドラッグの売人の男と付き合い始め、2人はデンマークに住み着き、有名なクリスチャニアを含め様々なコミューンを渡り歩いたらしい。「フリーラブ」の世界で誰彼かまわずセックスする親たち世代を見て、ハーレーのような子どもたちは思春期を迎える前にアルコール、ドラッグ、セックスを覚えたというから、やはりデンマークという国が現在もおかしい(褒め言葉)のはこういうところに根があるのかもしれない。
6歳の頃にデンマークのアート偏重フリースクールでドラムを覚え、その後家族はモロッコに数ヶ月住み、そこでハーレーが書いた絵と短編は、その2年後、ハーレー9歳のときにアレン・ギンズバーグの序文付きで出版されている。母や後にStimulatorsで一緒にバンドをやる叔母のDenisはギンズバーグと近く(叔母はニューヨークで他にリチャード・ヘルやらと一緒に住んでいたこともあった)、この頃ハレー・クリシュナの始祖プラブパーダと親交があったギンズバーグから、ハーレーは瞑想を教わったとも書いている。
ハーレーの初のパンク・ショウは1977年頃のデンマークで、Lost Kids、Sods、Brats(後のMercyful Fate)などを見て、78年には叔母に連れられてイギリスにも行き、「死ぬ前」のオリジナル・パンクを体験してもいる。その後79年に母子はニューヨークに戻り、当時はプエルトリコ人ギャングと黒人ギャングの抗争の場であったマンハッタンのゲットー、ローワーイーストサイド(LES)に移り住む。
と、この時点でハーレーの早熟ぶりとその環境の特異さにまず驚愕する。10歳にもならないうちにパンクに出会う人はこの世代だったら珍しくはないだろうが、身近にビート・ジェネレーションを代表する詩人がおり、またパンクバンドをやっている身内の女性がいたというのはあまり聞くことのないシチュエーションだ。その後はご存知のように12歳でStimulatorsのドラムを叩き始めるが、1979年2月のシド・ヴィシャスの死により、ニューヨークのパンク・ロックは死んだとハーレー自身も把握しているように、Stimulatorsは(先月末に出たEl Zine vol.42にヴォーカルのスクリーミング・マッド・ジョージ氏のとても面白いインタビューが載っていた)The Mad、Bad Brainsらとともに、NYCのパンクからハードコアへ移行する過程の架け橋のようなバンドとなっていく。CBGBとともに、Max’s Kansas Cityというクラブでパンクのライブが行われていた時代の話だ。続きを読む →